トーチソング

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「なんで勝手に決めるの?」 彼女は問題の椅子に座ってテーブルに頬杖をついたまま訊ねた。 「どうして勝手に約束なんかしてくるのよ」 彼女は崩壊寸前の北極大陸の岸壁みたいな危うい表情で僕を睨みつけた。    僕たちが問題にしている椅子というのはかなり古いもので、座ったり立ったりする度にいちいち軋んでいやな音を立てた。でも僕たちが問題にしているのは――そこのところは僕が強く押しきったわけだけれど――その椅子が彼女が昔の男に贈られたものだという事なのだ。  僕たちはそれなりに長い付き合いの中で、その『椅子』に関して何度も話し合いの場を持ってきた。主に僕が椅子を買い替えないか、と提案して、彼女がそれについていくつかの異論を唱え、曖昧な対案を提示すると同時に煙に巻くように話をすり替える。  僕たちはいつもそういうことを繰り返してきた。たとえばたまに痛む虫歯みたいに、なんとかしなければならないとある時には考える。けれど意識を他の場所に置いてしまえば――実際に僕たちには話し合うべき問題が他にも山ほどあったから――気にしないこともできた。    でも僕はその晩、彼女の許可なしに、大学時代の友人にその椅子を譲る約束をしてきたのだ。
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