ある宿

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頭を抱えるように丸まって、ぎゅっと瞼を閉じ、ひたすら耐えた。 〈どんどんどんどんどんどんどんどん……〉 ドアを叩く音は延々続いている。 (たすけてたすけてたすけてたすけて) 念じ続けていたら、急にドアを叩く音が止まった。 その瞬間、瞼に何かが触れた。 〈がさついた指〉のように感じられた。 その指らしきものは、榊原さんの瞼を無理矢理こじ開ける。 こじ開けられた目の前にあったのは、窓に張り付いていた、あの〈斜視の顔〉だった。 〈げっ……ふ、ふぐふふ、ぅふ〉 生臭い息を吐きながら、顔は嗤った。 榊原さんは生まれて初めて失神した。 「気が付いたときには朝でさ。すぐフロントに駆け込んで文句を言ったんだけどね。やんわりとスルーされちゃった。だから、部屋が悪いのかなんなのかわからないのよ」 以来、榊原さんは旅行をするときには「ひとりでは行かない」「しっかり下調べをしてから宿は決める」ようにしている。 旅行が苦手にならなかったの?と訊くと、 「あんな酷い目に遭ったのは一度きりだからね。もう一回遭ったら考えるかな」 でも、あの宿に二度と行かないのは確実ね、と彼女は真顔で答えた。
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