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「君が動揺する姿を見られるなんてね」
「あん?」
その日、真夜中の分娩室の前に俺は座っていた。そこにフラリとレイヴンが現れた。それは45秒の邂逅で……そういや、仕事以外で奴に会うのはその日が初めてだったな。
「たかだか嫁の出産ぐらいで俺が動揺する訳ねぇだろ? 裏の業界で何年生きてきたと思ってんだっての」
俺は禁煙と知りながらも備え付けのソファーに深く座りながら、胸元から煙草を取り出しいつものように火をつけた。
するとあいつは俺を見下ろしながら苦笑いを浮かべやがった。
「そのわりには煙草は逆さまだし、なにより君、スーツのズボンの上からパンツを履いてる」
視線を下にやると、なるほど確かにミスタービーン的な格好をしている俺。そう言えばその日は一回も看護婦さんと目が合わなかったなとか回想してたな。
「馬鹿が、最近ではズボンのこともパンツって言うんだよ」
「ククク……そういうことにしておくよ」
明らかに馬鹿にした顔で俺を見た後、レイヴンは俺の横に座った。
「しかし、今日はどういう風の吹き回しだよ? 入谷」
あ、入谷ってのはあいつの名字な。入谷恭司、それがレイヴンの本名。
「暇つぶしだよ。君の滑稽な様子が見られると思ってね。ククク……君は私の期待を本当に裏切らないね」
「そりゃ、どうも」
それからしばらくの沈黙が続いた。正直死にそうだったんだよ、あまりにも緊張しちゃってさ。
少しばかり時間が経った後、奴が口を開いた。
「君は奥さんの出産に立ち会わなくていいのか?」
「あぁ」
「どうして?」
本当は俺だって立ち会いたかった。けど、俺にはどうしても無理だった。
「俺の手はな、ドス黒くて汚れてる。どんなに洗っても落ちやしねぇ、ジョイ君でもこの汚れは落とせない。……俺が殺してきた連中の血で汚れてんだ。そんな汚い手で産まれてくる子を抱きしめる訳にいかない」
「……なるほどね」
そしてまた沈黙が流れた。
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