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へいしやうのやもめ烏(からす)のうかれ声、耳にそふゑて、夜もほのぼのと、明けければ、何となく出で立ちて、笛をばとり忘れたる風情にて、枕に置きて出でけるが、また立ち帰り一目見て、「またよ」と言ひし言の葉は、何となく言ひしかど、それが限りの言葉なり。
その夜(よ)は虚空蔵に参り、通夜(つや)を申して夜もすがら、申すやうこそあはれなり。
「願はくは、御仏納受(みほとけなふじゆ)ましまして、夫婦の道をかなしみて、野に臥し山にすむまでも、翼を重ね契りをなすとかや、承(うけたまは)り候へば、衆生(しゆじやう)をたすけましまさば、あかで別れし滝口を、一目見せてたび給へ」と、涙を流し夜もすがら、少しまどろむところに、八十ばかりの老僧、墨染めの衣に、香の袈裟(けさ)をかけさせ給ひしが、横笛が臥したる枕に立ち寄り、「北の方(ほう)、往生院に候へど、今生(こんじやう)の対面は、思ひもよらぬこと」とねんごろにのたまひ、かき消すやうに失せ給ふ。
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