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どこへも行くな。
俺がすぐ迎えに行くから一一。
昼前から降り始めた白雪は、時間が経つにつれて次第にその量を増し、夕刻の今となっては街を彩るネオンが霞む程になっていた。
しかし無風であるが故に、視界はそこまで悪くなる事はなく、しんしんと街に降り積もる牡丹雪はクリスマスムードを盛り上げるに最適と言っても過言ではない。
加えて、雲の絶え間から橙色の西日が降り注ぎ、更に幻想的な光景となっていた。
見慣れた街が全く違う世界に思えて、まるで映画のワンシーンを見ているような錯覚に陥る。
街のあちこちでクリスマスの雰囲気に浸るカップルたちも、それは同じらしかった。
だが俺はそんな幻想に溺れる事もなく、目的地へ唯々と走る。
目指すのは、この街の中心にある大きな噴水。
一一このままじゃ……
煉瓦が敷き詰められた地面には、靴底が埋まってしまうぐらいに雪が積もり、油断すると足をとられそうになる。
じわりとスニーカーの中に水気が染み込み、小さく舌打ちした。煩わしい。
走る。
走る。
白に塗られた視界がどんどん後ろに流れていく。
風と雪が顔面に当たって、ひどく冷たい。それは皮膚を刃物で裂かれる感覚に似ていた。
構うものか、と誰に言うでもなく宣言し、俺は更にスピードを上げる。
だが、提げた純黒の鞄がやけに重く、バランスが取りづらい。
一歩を踏み出すその度に、手には鈍い痛みが襲った。
「きっと傍から見たら、物凄く滑稽なんだろうな……」
と小さく漏らし、だが速度は決して落とさず、人々の合間を縫うように走り抜ける。
純黒のロングコートが揺れる。
一一また、間に合わないのか?
降る雪の間から、人工的な赤が滲んだ。信号である。
無視したい衝動に駆られたが、行き交う車の量を見て、その提案は無謀だと気付く。
コートのポケットから携帯電話を取り出した。
時刻 16:46
「嘘、だろ? 偶然なんかじゃなくて、本気であの夢は……」
そう呟くと同時か、信号が赤から青に変わる。
俺は携帯電話をぱたんと閉じ、安全確認もせずにまた走り出した。
もう間に合わないかもしれない。
瞬間。
体が強烈な光に照らされる。
甲高い車のブレーキ音とタイヤの悲鳴が鼓膜を支配し、眼前には制御を完全に失った車の姿。
「おいおい。教えてくれ八千代。これは最初から夢で一一」
はらはらり。
真白な牡丹雪が舞い散る。
それは斜陽の紅に濡れて一一。
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