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きゅおん、と弦同士が擦れ合い、流麗なヴァイオリンの響きが音楽室に木霊した。
誰もいない、だだっ広い教室を独占して、自らが奏でる音色でいっぱいにする。
別に遊んでいる訳ではない。
これ一一ヴァイオリンの練習が俺の立派な受験勉強だった。
俺は、県内で有名な芸術高校を受験する事に決めた。
ヴァイオリニストなる一一そんな絵空事を本当に現実にするためは、圧倒的なヴァイオリンの技術が必要だった。
誰にも届かない、至高の技巧欲しさに毎日のように夕刻まで修練を積んだ。
中学3年のクリスマス。
その日は終業式で、俺は昼過ぎからずっと音楽室に居残り、ひとりで習練していた。
受験曲である、シューマンのトロイメライが音楽室に鳴り渡る。
きゅおん。
全てを包む優しい音の葉。
集中が解けた時には、もう既に火灯し頃になっていた。
深紅の夕陽が窓から射し込み、空を舞う細雪がそれに反射して、きらきらと輝いている。
もう帰ろうか、と。
そう思った瞬間だった。
重厚な鉄の扉が開く音と同時に、ひとりの少女が立っていた。
病的なまでに白い肌に、それと対照的な純黒の長髪。
一目でその人物が『雪城 八千代』だと判った。
間違えるはずがない。
何の接点もなかったとはいえ、少なくとも3年間は彼女の近くにいたのだから。
それ故に理解してしまったのだから。俺の才能では、決して彼女の才覚の足元にも及ばない事を。
憧憬していたのだ。
あのようにありたいと。
嫉妬していたのだ。
あのようになりたいと。
「雪城か。どうしたんだ?」
緊張で声が震える。彼女から発せられる気配には畏怖すら覚えた。
「いえ、ね」
八千代が口を開く。
静寂が支配する教室に、玉を転がすような透明な声音が溶ける。
「帰ろうと思ったら、ここからヴァイオリンの音が聴こえたものだから」
彼女が背にしている窓から陽光が届き、その姿が煌めいているように見えた。
「ごめんなさい。あまり話しもしてないのに、いきなり失礼な事を言って」
舞い踊る純白の雪と、深紅の斜陽に映える彼女は、事もなげに一一ひどく興味なさげに言い放った。
「稚拙な演奏ね」
それがおそらく、意識して俺が八千代と交わした最初の会話。
それは、出逢いと呼ぶには余りに不粋で一一。
運命と称するには余りにぴったりの演出で一一。
「ただ、少しだけおもしろいわ」
俺たちは聖夜の下に巡り逢った。
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