650人が本棚に入れています
本棚に追加
俺は高校に進学した。目標としていた芸術高校に、である。
その、県内で最高位の芸術高校の中にあって、それでも八千代は孤高の地位を確立していた。
芸術において、技術はすべてだ。
羨みも嫉みも、憧れさえも磨り潰す絶対的な技量を八千代は持っていた。
彼女はそれを行使して、自らが興味を抱かない者との間に壁を作っていた。
ただ嬉しい事に俺は彼女に選ばれたらしく、八千代は俺にだけ、その笑顔を見せてくれた。
「なぜって? 私言ったじゃない『少しだけおもしろいわ』って」
1年前一一中学3年のクリスマス。
八千代に『陳腐』と言われた俺は当然食い下がった。
言葉の通りよ、と八千代は淀みなく言う。「そのままだと劣悪でさえあるわね」
「ただ」
彼女は続ける。
「私と君なら、その響きは世界さえ虜に出来るわ」
なんとも高圧的で意味不明な言辞を高らかに宣言すると、彼女はピアノの前に座る。
「君の『夢幻』を聴かせて?」
俺は突然の事で呆気に取られたが、事態を呑み込むとヴァイオリンを構えた。
無論、彼女の大言壮語を真に受けた訳ではなく、『劣悪』だと罵られた技術で彼女を見返したかったからだ。
ふたりだけ音楽室に、再びヴァイオリンの音色が反響する。
優しく儚げなトロイメライは、雪舞う夕暮れに消えていく。
そこに。
ぽん、とピアノの旋律が加わり、音は重なり交わり、絡み合いながら共鳴した。
見える世界が変わる。
流れるトロイメライに世界は清かに、華麗に彩度を増していく。
変貌する世界の中心は俺たち。
奏でる手は休めず、黒白の鍵盤を辿る八千代を見る。
夕陽のせいか、顔は少しばかり朱に染まっていた。
一一あぁ。本当に彼女とならば。
羨望や嫉妬や憧憬は、その無慈悲な才覚に、跡形もなく磨り潰される。
残ったのは、何て事のない、唯の恋心だった。
一一俺は彼女と出逢った時から、もう既に恋焦がれて……。
だが、その純粋な想いは、いつの間にか嫉視で塗り潰されていた。
なぜ、その才能を持つのが俺ではないのか、と。
奇しくもその日はクリスマス。
八千代への恋慕の念を、想い出させてくれた事を一一。
俺は存在すら定かでないサンタクロースに、ありったけの感謝を捧げた。
最初のコメントを投稿しよう!