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「あなたさまでも、このようなことがあるのですね」
心底意外そうな声と顔で謙信は膝を折った。傍らに下ろした桶に張られた湯がちゃぷりと波を立て、立ち上る白い湯気がその頬を撫でて空中に溶けていく。
「かいのとらもひとのこ……やまいにはかてませんでしたか」
ぜえぜえと喉を鳴らして息をしながら信玄は謙信を睨め付ける。
「…………うるさい」
上体を起こそうとした途端、眩暈と咳に見舞われ浮かせた頭は枕代わりの布に沈む。
久方ぶりの逢瀬だった。
領内外の小競り合いを治めるべく奔走していた無理が祟ったのか、軽い風邪を拗らせた信玄は二人示し合わせた隠屋に一足早く到着し、そのまま寝込んでしまったのだ。
「あなたさまがどまで、たおれているのをみたときは、おどろきましたよ」
浮いた汗を軽く拭ってくれる手拭いが、徐々に湿っていく。思ったより汗をかいているらしい。
「おきられますか?」
布団から剥がすように巨体を持ち上げる信玄を横目で確認した謙信は、押入からくたびれた籐籠を引き出す。幾つかあるそれの蓋を開閉していたが、目的の物を発見したらしい。
「さ、これに。しょうしょう…すんたらずやもしれませんが」
多少薄手ではあるが、青苧の単衣を手に戻ってくる。
汗で湿った着物の肩を落とし、堅く絞った手拭いで丁寧に背中を清める謙信はいつになく楽しそうだ。滅多に体を壊すことの無い男が参っているのが珍しくて仕様がないのだろう。
全く、こんな姿は腹心達は疎か息子にも見せた事が無いのに。
しかし同時に、こうやって甲斐々々しく世話をされるのも悪い気はしない。長年連れ添った夫婦の様で、何とも面映ゆく。
踏張りのきかない体を支えられながら着物を着付けられていると、密着した胸元に謙信の息が当たる。
「む、」
太い胴に腕を回され、伝染する体温。
「同衾は無しか?」
「ありません」
駄目で元々。予想はしていたが、こうもすっぱり断られると尚更惜しくなってしまう。なにせ、久方ぶりの逢瀬なのだ。
「どうしてもか?」
「はい」
強引なまでに布団に押し込まれている最中も食い下がったが、気の強いことなら他の追随を許さない彼も絆されてはくれない。
「少しくらい…」
「うつされてはたまりませんから」
これ以上無い程の爽やかな笑顔が染みる。
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