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諦めが肝心と云うではないか。時に退いてみせるも男の度量と分かっていても、頻繁に逢うことの出来ぬ身には堪える。
「…………折角こんな山奥まで足を運んだというに…」
ぶつぶつと女々しい男を一瞥し、謙信はフン、と鼻を鳴らす。
「あなたさまがわるいのではありませんか? やまいとはいえ、わたくしいがいにくっするなどと……。いまのあなたさまなど、ぞうひょうにすら、うちとられてしまいそうではありませんか」
「腑甲斐無いと呆れる、か?」
酷評に空咳混じりで苦笑すれば、伸びた細い指が浅黒い男の頬を抓る。
「……にくらしい」
実に曖昧な微笑み。下げられた眼尻に、信玄がその名を呼ぼうとすると、
「さあ、もうおやすみなさい」
いつもの表情に戻り、それでも手つきだけは優しく肩まで掛布団を引き上げてくれる。
「もう、行くのか?」
よもや独り捨て置かれるわけではあるまいな?
一瞬過った不安が表に出たのか、発した声は思いがけず頼りないものだった。
それは口にした信玄はもとより、謙信にとっても意外だったようで。
「ふふ。……よもやあなたさまのくちから、かようなことばをきくとは」
羞恥と体調不良による咳に哽返る信玄を尻目に、口元を覆ってさも愉快そうに笑う謙信。それがまた好きな顔であるのが、この時ばかりは憎らしい。
「では、ねむられるまではここにいることにしましょう」
ぽんぽんと布団を叩く仕草は、ぐずる子供をあやしつけるにも似て複雑な心境だったが、それも滅多に無いこと。
信玄はおとなしく目を閉じた。
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