壁の庭

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「え?」フォークを握る少年の手が瞬時に止まった。呆気に取られて口が半開きになっている。 「シャル、何を言ってるの?」 「あなたこそ、何なのよ」  シャルが顔をしかめる。大体、何でそんなに馴れ馴れしいのよ。鋭い目つきで言い続ける。  少年の口が僅かに動くが、そのままそっと閉じてしまう。おどおどした仕草は、想像だにしなかった事態が起きて言葉を必死に探しているようだった。 「僕の事、覚えてないの?」 「全然」シャルの淡々とした返事には、少年への警戒心が顕著に現れていた。覚えてる覚えてない以前に、「知らない」ような気がしていた。 「じゃあ、ここが何処か、とかも?」 「全然」首を左右に振る。肩まで伸びたブラウンの髪が、微かに揺れる。  こんな円筒形でカラフルな部屋など、絵本の中のようで、人生で何度も拝見できるものでは無い。否応なしに脳裏に焼きつけられてしまう。それを忘れるなど、どうして出来ようか。 「『パルテノン』も?」 「全然」何関連の単語だろか、とシャルは思った。全く聞き覚えの無い言葉だった。 「じゃあ、やっぱり『世界の壁』とかも?」 「全然」もはや、事務的な答え方になっていた。何を尋ねられようが、単調な回答しか出来ない。今のシャルは、無知なのだから。自分の置かれた状況に呆れて溜め息を吐く。 「自分の名前まで、覚えてないの?」 「それは分かるわ。わたしは、シャルトル」そうそう愛称はシャル、とすぐに少年が声を上げる。 「名前はちゃんと覚えてるんだね」少年が頷く。でも、一体全体、どうなってるんだ。独り言のように呟いては長い首を傾げる。  少年が、テーブルの中央に置かれた、焦げ目の入ったパンに一瞬視線を下ろす。 「一先ずさ、シャルもテーブルに着きなよ。食事しながら色々と話してれば、何か解決するかも知れないし」  食事したって何も解決しないわよ、とシャルは言いたかったが止めておく。少なくとも、シャルよりは少年の方が多くの情報を持っているからだ。  無知な状態で、自分の意見を頑(かたく)なに主張することほど愚かなことは無い。それをしたいのならば、ある程度の情報を仕入れるのは必要最低限な事項だ、と。  今は少年の言うことに従うほか無い。よそよそしく紫色の椅子に腰を下ろすが、少年が掴もうとしていた芳(かんば)しいパンを掠め取る。 「僕が先だよ!」少年が、頬を風船みたいに膨らませる。
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