春日【かすが】

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遠くで、太鼓の音がする。 何処かで、祭りでもしているのだろう… あぁ… 私はいつからこうしているのか… 頭がぼぅっとして、何が何だか分からない… 「おぃ、顔をもちっと上げてくんねぇか」 「善さん、そろそろ堪忍してくれねぇかい」 「あと少しだぃ、辛抱してくれ」 彼は黙々と書き続ける。 春画、だ。 彼は、私を沢山書いてくれるのだ。 嬉しいが、こんな暑い日にずっと立っているのは、流石に辛い。 じっとりと出る汗。 はぁ、とため息をつくが、きっと彼には聴こえてはいないだろう。 女郎が絵師に絵を書いてもらえるなんて、きっとそんなにあることではないだろう。 嬉しいが、正直なところ… 早く愛しい人に抱いてもらいたい。 自分の貪欲さに、くすり、と笑った。 「いいねぇ。その表情。やっぱり春日の雰囲気、俺ぁ好きだねぇ」 にかっと笑って彼は筆を進めていく。 「善さんよゥ、早くしてくんなィ」 あいよ、と言いながらも、筆を止める気は無いようだ。 はぁ、また私も、偉い人に惚れたもんだ… 禿に、酒とつまみを頼む。 「どんな塩梅だい」 そう言って私は、部屋中に散らかった絵を拾い上げる。 「人はいいんだが、俺の筆がいけねぇや。どうしたら、あんなふうに書けるのか…」 「あんなふう、たぁ、どんなふうだね」 彼はあぁ、と言って、届いた酒に手を伸ばす。 「俺の、師匠と、その娘だ」 あぁは書けねぇよなぁ、とまた呟く。 「わっちぁ、絵のことはさっぱり存じねぇが、そのお二人はそんなにうまいのかい」 「あの父娘は、化けもんだ」 そう言ってけらけらと笑う。 「昨日は、師匠にヘタ善、と言われちまったぃ」 ふぅん、と言って、散らばっている絵の中から、目に留まった物を拾い上げる。 「これなんか、うまいじゃないか」 それじゃあ、そいつはやるよ、反故(ほご、没のこと)にしようと思ってた、と彼は言った。 「絵は書けないが、おめぇさんと呑む酒は格別だな」 彼が注いでくれる酒を、綺麗だなぁと思いながら、もらった絵を眺めていた。
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