狼と向日葵(前編)【おおかみとひまわりぜんぺん】

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客は、みな一生懸命に見える。              自分が快楽へ逝くためだ、当然のことなのだろう。              ただ不思議なのは、私たち妓が快感に感じていなくても、男は快感をむさぼることができるということ。              その快感は…              「支配」という二文字につきる。                          体の快楽ではなく、一人の人間を支配する、という快楽もある。              それは、体よりもずっと奥底に眠る人間の本能なのかもしれない、と思う。                                                              「ひまわり」 呼ばれて、はっとなる。              「なんや…ねえさんか」              「随分おつかれやね、昨日の客、そんなしつこかったん?」              「そんなことは、あらしまへんが…むしろ、たいくつなくらいやわ」 風呂場で二人、遊女の会話が続く。湯けむりがむせこみそうだ。              ちゃぷん。とぷん。          水の音。              「あ、ねえさん、天神(:てんじん、遊女では二番目に高い位、一番は太夫:たゆう)にならはってから、なんか変わったん?」              ふふ、と微笑んで、天神は言う。 「なんも変わらへん。あ、名前が初音から菖蒲(あやめ)に変わったくらいやなぁ」              ふぅん、と私は相槌を打つ。 「深雪ねえさんは…」              天神は言う。 「ちっとも変わらへん。うちもああなりたいねん」              深雪(みゆき)、とは太夫のこと。深雪太夫、私たちがいる遊廓で、最も格の高い女郎。              「深雪ねえさん、道中のとき、壬生狼(みぶろ)が襲ってきてもぴくりともせんかったって、聞いた?」              「えっ…壬生狼が?」 私は眉をひそめる。              「そんな…うちなら恐ろしゅうて大声あげてしまいそうや」              侍同士の、…男同士のいざこざなんかごめんだ。 女こどもを巻き込むなんて最低だ、と思う。
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