序章

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運転に慎重な父は、時間にも厳しい人だった。自分が一度口にした予定が狂う様ならば、必ず事前に連絡を入れるはずだ。 急に不安を感じて、紗香は父の携帯に連絡を入れてみた。 呼出音が続くが、電話を取る気配はない。 もし運転中ならば、父は絶対に電話は取らない。着信があっても、次のパーキングエリアに入るまでは連絡は寄越さないだろう。 携帯を切り、紗香は考え直した。連絡をしようにも、パーキングエリアが少ない辺りを走行しているのかも知れない。 そう思い直した直後、また別の考えが頭をよぎる。 今日は母がいる。運転中の父は携帯を使えなくとも、今日は助手席に母がいるではないか! やはりおかしい。 壁の時計を見ると、時刻は21時25分を回っていた。 とその時、紗香の携帯が鳴った。 紗香は安堵の吐息を吐いて、受話ボタンを押した。 「もしもし父さん?今どの辺りなの?」 その問い掛けに、父が応えることは無かった。 「小林紗香さんですか」 知らぬ男の声だった。 「あ、はい。どちら様でしょうか?」 「失礼しました。私、月島警察署交通課の西島と申します」 相手の素姓を聞いた瞬間、紗香の思考は真っ白になった。両親の身に何があったのかを、相手の素姓が説明していた。 すぐに我に返り、紗香は電話の声に意識を集中させた。 「御両親が運転されていた車が事故を起こされまして─」 「何処ですか!?何処で事故を?」 相手の声を遮って、紗香は尋ねる。 「佃大橋から月島に降りる分離帯付近です」 紗香は駆け出していた。 電話の声が伝えた事故現場は、紗香の店の目と鼻の先であった。 外に出ると、予想以上に激しい雨が紗香の身体を打ち付けた。 その雨の向こう、佃大橋の高架上に、無数の赤色灯が回転しているのが見える。 紗香は、豪雨の中を無我夢中で走った。 ハンバーガーショップの脇で転倒し、膝を擦り剥く。 ストッキングは裂け、パンプスは脱げ、握り締めていた携帯は道路の向こうへと転がって行った。 起き上がり、大通りを横切る。 紗香を避けた乗用車のタイヤが、濡れたアスファルトの上をスリップする。 高架上へと続く坂道を駆け上がる途中、何人かの警官に呼び止められた。 それらの、紗香を取り巻く全ての情景が、スローモーションに感じた。 どれだけ走っても、永遠に両親の元へは辿り着けない。 そんなもどかしさを、その時の紗香は感じていた。
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