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ぶつぶつと口から呟きが漏れる。
「あとはこれだけ……あとは、もういらない……僕はいらない……」
止まることなく動いていた指が、キーボードの上を数瞬泳ぎ、大きなキーをたん、と押した。
ぶうん、と音がして、壁に突如青白い光が灯る。
壁面に埋め込まれていた大きな画面が起動したのだった。
男は弾かれたように画面の方を振り向いた。
電子的な青い画面に、明るい水色のもやのようなものが現れている。
それはゆらゆらと動き、自分のあるべき形を模索するように、形や面積を変化させていた。
「……やった……接続出来た」
男は少しの間その画面を茫然と見つめていた。
やがてよろよろと立ち上がり、画面に歩み寄った。
その表情は先程までの鬼気迫るものではなく、憑き物が落ちたかのように穏やかで、疲労だけが現れていた。
壁によりかかり、震える手でそっと画面に触れた。
息がやや荒くなっている。
「これで僕のするべき事は終わった。……いや、人間の仕事は、もう終わった」
伸びた髪の間から覗く瞳は、深い愛情のこもった、まるで自分の子供でも見ているような、ひどく優しげなものだった。
「この国を宜しく頼むよ」
目を細めてぽつりと言った。
突如、苦しげに呻いて胸をおさえ背中を丸める。
苦痛の為の汗が頬を伝った。
荒い息をしながら、男はおぼつかない足取りで一つの机に近寄る。
そこには薄汚れて埃の付いた一枚の写真が乗っていた。
男はそれを手に取り、汚れを指で拭う。
今とは全く違う小綺麗な格好をした男と、もう一人黒い髪の女が寄り添っていた。
背後に巨大な澄んだ水槽があり、二人はそれに手を添えて笑っている。
「どうかな。僕は……。人間は負けなかった。そうじゃないか……?」
男は少しの間写真を見つめ、それをポケットに入れた。
部屋に一つしかないドアによろめきながら歩いていく。
ドアを開けて部屋から出て行く時、ほんの少しだけ部屋の中を振り返った。
そうして、静かな室内にドアの閉まる音が響いた。
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