939人が本棚に入れています
本棚に追加
「何だ、君か」
『彼女を忘れられなかったら相談に来い』、と言ったのはあんただろう。僕は今更ながら、ここに来た事を少し後悔した。
「ここに来たという事は、つまり、あれだね」
どうやら僕の口から言わせたいらしい。望むところだ。
「そうですよ。忘れられないんです。仕事をしたって、酒を飲んだって、ぶん殴られたって、忘れられやしなかった。おかげでもう何日も、満足に寝ていません」
「やはり、カウンセラーを紹介するかね。言っておくが、睡眠薬なんか処方せんからな」
僕が自殺するとでも思ったのだろうか。まぁ、考えなくもなかったが。
「両方とも、必要ありません」
「ほう」
僕は出来るだけ真面目な顔を作って答えた。
「僕に必要なのは、彼女だけでぷすっ」
左の肋骨を痛めたせいで、決めゼリフが台無しだ。
「緊張するぐらいなら、初めから言わなければいいだろう」
僕はゴホンと咳払いをして、恥ずかしさをごまかした。
「もし彼女の住所を知っているなら、教えて下さい。僕の望みはそれだけです」
「……どうやら、吹っ切れたようだな」
呆れたような表情をして、ヤブ医者は僕の目を見た。
僕はそれを見つめ返す。
ヤブ医者の顔色は、相変わらず悪いままだった。
最初のコメントを投稿しよう!