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置いてけぼりにされたような気持ちになり、僕は軽くため息をつく。
そのまま口を開けっ放しにしていると、口の前にリンゴが差し出された。
彼女はそれを『リンゴをくれ』のサインと勘違いしたらしい。
僕は黙ってリンゴを頬張った。
「何かさっきから、あなたが質問してばっかり」
「ほうかな」
彼女はもう注意をしなかった。どうやら諦めたらしい。
「次は私の質問に答えてよ」
僕は首だけでコクリとうなずく。
彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべながら、こう言った。
「私に初めて言った言葉、覚えてる?」
「ぶっ」
僕は口に含んだリンゴを、少しだけ吹き出してしまった。
「ど、どうしたの?」
「ひ、ひや、何でもらい」
「もう、何ニヤニヤしているのよっ。真面目に聞いているのに!」
「ごめんごめん。え、えーっと、何らったかなぁ……」
心の中でクスクスと笑いながら、僕は覚えていないふりをした。
「ふぅん、忘れちゃったんだ?」
とたんに彼女は、ふふんと勝ち誇った顔になる。
そして最後のオチを取り出すべく、彼女はカバンに手を突っ込んだ。
……最後のオチなら、僕も知っているぞ。
何も知らないのは、彼女だけなのだ。
きっと数秒後、彼女は満面の笑みで、僕にガムを差し出すに違いない。
そんな彼女の姿を、僕は思わず想像する。
どうやらそれがまずかった。
僕はとうとう、堪えきれずに笑いのダムを崩壊させてしまった。
盛大に吹き出されたリンゴの果汁が、病室の空気を甘い香りで満たしながら、ゆっくりと霧散していった。
(了)
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