”やまなか”

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「富田さんですか? ご予約は入っていないようですが」  山仲温泉の受付で予約の確認をするが、俺こと、”富田茂(とんだしげる)”の名前が無いらしい。 「ええ!? 二週間前に電話入れたぞ! ちゃんと確認してくれよ!」 「ですから、しっかり調べましたが”富田”と言う名前での予約は……。お間違えになったと言う事はありませんか?」 「間違えるわけないだろ! ホラ! ここにちゃんと通話履歴もある!」  と言ってポケットから携帯を取り出し、予約をした時に掛けた履歴の電話番号を見せつける。女将さんはそれをまじまじと見つめると、次第に呆れたような表情に変わって行く。 「お客様……」 「どうだ分かったか」 「いえ、お客様がおかけになった番号は、私共の温泉の暗号ではなく、お隣りの”やまなか”温泉さんの番号なんですけど……」 「ハァ? 何言ってるんだ? だからここはやまなか――」  そこで、ふと嫌な事を思い出した。確か”やまなか”温泉は、もう一つある。  ここに来る途中の、ぼろい立て札の立っている鬱蒼とした山道を(想像で)100分行った(これも想像で)今にも潰れそうな温泉の事だ。 「そんな……」  俺の強気な表情が崩れて行くのを確認すると、自分の間違いでないと確信でき安堵の溜め息を付いた女将さんが、哀れむような表情を作って言った。 「よくいらっしゃるんですよ、ここと間違えるお客様が」  しかしここで諦めると、これから100分も歩いてボロ温泉に行かなければならない。幾らそっちを予約したからと言っても、面倒臭くて行く気はしない。 「分かった。それならそっちをキャンセルするから、こっちに泊めてくれ。見た所、空き部屋はあるだろう?」  温泉は閑散としていて人の気配も無く、殆ど泊り客は無いだろうと予想した。が、 「申し訳ありませんが、これからこられる団体様で、既に部屋は満席となっているんですよ」  益々、哀れんだ目になる女将。この表情から察するに、”山中”温泉は、俺の想像した以上に酷い所なんだろう。 「何とかならないのか?」  女将はゆっくりと首を縦に横に振る。 「申し訳ありませんが……」  その言葉で敗北を悟った俺は、仕方なく旅館を出て”山中”温泉を目指す事にする。ぼろい立て札の前にやってくると、大きな溜め息を突いて山道へと足を踏み入れる事にした。
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