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「よぉ~し。始めるぞ」
努めて最前列の席から目を逸らし、教壇に立つ。
「あれ? 今日のセンセー、顔が細い」
生徒達から、笑い声があがる。
「まあな。かっこいいだろ?」
真田の言葉に、笑い声の勢いが増す。
「珍しく、飲まなかったんでしょう」
窓際の生徒が茶化す。
いつもと変わらぬ教室の雰囲気に、真田は安堵した。
うるさい女子に静かな男子。金曜日と同じだ。
「じゃあ、とっとと始めるぞ」
ブーイングが沸き起こったが、同時にパラパラと教科書を開く音がする。
「前回出来なかった分をこの一時間で終わらせるから、皆ついて来いよ」
ノートの内容をひたすら黒板へ写していく。白いチョークから粉が舞う。自然と指先に力が入る。古文なんか書いている。闇の中へ、白い線を引いていく。それは元々小さな粒子で、それが集合し、形作られ、初めて意味を成す。だけどそれは古文であって、古文に興味がなければお終いだ。単なる白い粉だ。送る側に意味があっても、受け取る側によっては、それは無になる。例え受け取る側に意味が生じても、送る側が伝えたかったものと違う意味で伝達されたのなら、やはり無となるに違いない。無限にある言葉の中から一つを選び、それが最も自分の思惟するものと近くても、必ずしもそれが完璧だとは言えないのである。
――だから、だから彼女も。
もしかしたら、ズレたのかもしれないな、と思った。
背後から、生徒の視線が感じられる。真剣に黒板の文字を写している。一人を除いて。
「先生」
高い声がした。
チョークが折れた。
床に落下した。
拾わずに、真田は振り返った。
「顔色、悪いんじゃない?」
クリスタルが、そう言った。
ああ、と言ったまま、真田は動けなくなった。心臓が、妙にうるさい。邪魔をする。今、意味を、言葉の意味を、解読中なのに、心臓が、手が、震えて、チョークの片割れが、指先で、崩れていく。
――どうして、昨日、来なかったんだ。
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