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〈1〉  あの夜、俺は確かにおかしかったのだ。  同僚の話に依ると俺は昨夜、酔っ払っていたらしい。それは事実なのかもしれない。まるっきり、記憶が想起できないでいるのだから。  同僚は半ば呆れたように眉尻を下げ、俺の肩を叩いた。 「もう忘れろよ」  何を忘れろというのか。それに、俺にはあの夜を忘れようとしたって最初から思い出せていないのだから、その言葉は何の効力も発揮しない。ただ、不安にさせるだけだ。 「俺は、何かしたのか?」  情けない嗄(しゃが)れた声で訊(き)いた。  同僚は頭を横に振ってみせる。 「いや、そうじゃない。むしろ……いや、覚えていないならそれでいいさ」  そう言って、鼻から息を吐き出した。曖昧な返答だ。思い出した方がいいが、思い出せないならそれはそれで然り、といった調子だ。 「話してくれよ」  食い下がると、同僚は唇を蛸のように尖らせて渋面をつくった。 「人格を崩壊させることになるかもしれない」 「脅すなよ」  同僚は束の間笑ってみせると、うーむと唸って俺の腕を掴んだ。そのままちょっと来い、と言って奥の相談室に連れて行かれた。  閉鎖的で無機質な色のない部屋だ。  俺を冷たいパイプ椅子に座らせ、机を挟んで向かいの椅子に腰掛けた。机の上で手を組み、こちらの顔を覗き込んでいる。  俺は、逡巡した。  先程の不安が膨大した。  叱られた子どものように体を竦ませて、同僚の視線から逃げるように俯いた。動悸が早まり、手が汗ばむ。同僚の息遣いが耳のすぐ傍から聞こえてくるようだ。 「おまえな」  その言葉に、体が不随的に震えた。悪魔の声だ。 「おまえ、昨日の夜」  後悔した。やはり聞かない方が良いのではないか。人格崩壊とまではいかなくとも、精神的に強大なダメージを受けるかもしれない。  もうだめだ――。 「あの店でおまえ、女に攫(さら)われたんだよ」
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