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〈1〉
真田優太は、ジンジンと疼く頭を抱えながら、午後からの仕事に向かった。
私情を仕事場に挟んではいけない。それは絶対に許されない事だ。
よっこらしょ、と言って真田は本と名簿を持ち、食事の匂いの残る部屋を後にした。
少し歩くと階段があり、重い足を無理に持ち上げるように上った。そのまま長い廊下を歩き、一番奥のドアを開く。
「よぉ~し、始めるぞ」
真田はやはり嗄れた声で言うと、騒がしかった部屋が静まり返った。
「先生、まさか飲んできたの?」
奥から声が上がった。
「臭うか」
真田は少し焦躁したように言った。自分の酒臭さを生徒に尋ねるのだから仕様がない。
「すっごく臭い!」
今度は窓際から声がした。
奥の方まで匂いが届いているなら相当だ。
「たまにはいいだろ。我慢してくれ。授業始めるぞ」
真田はスーツのポケットに手を突っ込みながら、空いている手でケースからチョークを取り出した。
先生失格ぅ、と真ん中から厳しい意見が飛んで来る。
真田は気付かない振りをして頭を掻きながら、黒板に向き合った。
果たして今の状況は授業として成立しているのだろうか。生徒は好き勝手に喋り散らし、いつ塞ぐか分からない口を動かし続けている。
「今日から皆お待ち兼ねの古文に入るから、ちゃんと話を聞くんだぞ」
「えぇ、今日も勉強?」
「当たり前だろう。他に何やるんだ」
真田は生徒から発せられる数々の誹謗中傷に構わず、予めノートに纏めておいたものを黒板に書き写した。
難しい漢字を多用するため、少しでも気を抜くと誤字を招きやすい。そうなると、奴等の思う壺である。
真田は、一心不乱にチョークを走らせた。
「面白い話とか聞きたいなぁ」
背後から細い声がした。前列の女子生徒だ。
真田は思わず、チョークを握る手を止めた。
声だけで分かる。
――三波さちえ。
「修学旅行に行きたければ勉強するんだ」
「またその脅し文句だ。聞き飽きた」
あまりにも教師を舐めすぎているため、真田は逆に可笑しくなってきた。だからそのまま振り返って、三波の前に立った。
彼女は艶のあるショートカットの髪からこちらに視線を向け、口元だけで笑ってみせた。
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