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「いい加減にしろ。今日は絶対に勉強だ」
真田の言葉にぴくりともせず、三波はだからぁ、と言った。
「つまらないの。何か話してよ」
クリスタルのような瞳が独特の光を放っている。至近距離でその顔を見ると、一瞬眩暈を起こしそうになる。一度見たら忘れられない、そんな生徒だ。
「彼女とかいるの?」
窓際の生徒が叫んだ。
「教えないよ」
真田は首に腕を回した。
「とにかく、他のクラスの遅れを取り戻させてくれ」
再び黒板に戻り、古文の残りを書き出す。
作業を終えると、赤いチョークに持ち替え、要点をチェックした。この間、真田は完全に背後の世界を無視した。
「これ、全部ノートに写せよ」
白と赤に染まった手を黒板に叩き付ける。
「特にチェックした部分は試験に出すからな」
生徒達は急に押し黙り、板書したものをメモし始めた。
真田が満足げに教室中を見渡すと、一人だけ微動だにしない生徒が目に止まった。
三波だ。
三波と目が合うと、彼女は人差し指をくいくいと屈曲し、伸展させていた。
ここへ来い、という意味なのか。全く以っていつから自分はこんなに見くびられたものかと、真田は顔をしかめた。
嫌々近付いていくと、彼女は机の上にノートの切れ端を出した。周りの生徒達は真剣に黒板とにらめっこしているため、こちらに気をかける様子は無い。
真田は極力自然を装って、その小さな切れ端を覗き込んだ。
“ばらすよ”
ああ、悪魔の言葉だ――。
そもそも真田が生徒に、特に女子生徒に舐められているのは、こいつのせいだったのだ。真田を見下せる唯一の生徒が、この三波さちえなのだった。
真田は、三波に弱みを握られていた。悲しいがな、紛れもない事実である。
三波は、真田の表情の微妙な変化を読み取ったのか、にやりと笑った。
――胸がむかむかする。いらいらする。そして何よりも、ひやひやする。
真田は教壇に登り、黒板の文字を片っ端から消した。
「ようし。今日は俺の失恋話をしよう」
そして真田は見逃さなかった。
誰よりも早く拍手をしたのが、三波だという事を。
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