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「顔色、悪いな」
――そんな事はどうでもいい。
真田はその場で正座し、両手を所在無げに広げた。
目の前の男は――。
まさしく、田中だった。
「今日はとりあえず帰った方がいい」
田中は真田の背中に手を携え、ベッドから降りる様に促した。靴はベッドの真下に隠れていた。
ボロボロのシューズを履きながら、真田は己の愚かさにただただ意気消沈した。
田中によってここへ運ばれたのだろう。その事実に思い至り、最悪の可能性が真田の脳裡を支配する。
「もしかして、俺のクラスに来たのか?」
「皆には伝えてあるから、心配しなくていい」
田中は白衣を脱ぎ、腰掛けに置いた。
「タクシー呼ぼうか」
タクシーという単語に、どきりとする。
「いや、大丈夫だよ。仕事なら、まだ出来そうだから」
珍しく呆れた顔をして、田中は洗面台へ向かった。
それを目で追った刹那、真田の顔が鏡に映し出された。まるで翁の様だ。目は落ち窪み、隈が深く刻み込まれている。頬はこけ、顔面の筋肉が弛緩しきっている。
その酷い形相は、田中によって隠された。
「送っていくよ」
水の入ったグラスを真田に差し出し、田中は外出の準備を始めた。
世辞ではなく本気でそう言った田中の提案を断る事が出来ず、真田はパイプ椅子に座り、グラスの水を一気に呷(あお)った。
飲んで初めて、相当喉が渇いていた事に気付く。
自分は生きていたのか死んでいたのか、自信が無くなっていた。
それすら分からないのだから、食いたい飲みたいという欲求も当然の如く無かったのだ。
もしかすると空腹で身体が栄養を欲していたのかもしれない。ぐぅ~などと、腹が鳴っていたのかもしれない。しかし自分の気持ちはまるっきり、拒否して受け止めようとしなかった。
――違うものが欲しかったのだ。
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