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西に太陽が傾き始める頃、男が街道をやって来た。
腰に大小の刀を携えてはいるが、どうも武士とも浪人とも見えない。何せ首も腰も細い。都風の洒脱な着物を着、伏し目がちの目元の涼しい顔立ちに、通り過ぎる者は男女問わず振り向く。
この通りでは、そこそこ有名な男だが、誰も其の名前を知らない。
有名なのは、男が何日かに一度程、決まって喜田宿に行くからだ。
喜田宿は街道沿いの老舗である。やや郊外にあって、交易の通過地点となる宿屋と商業のこの町には、旅人は珍しくない。
ある日旅人としてやってきたこの男が、気付けば何度も喜田宿を訪れるようになったのは、相当この町が気に入ったのだろうと思われていた。
「蜻蛉の旦那、水菓子があるよ」
茶屋の主が、人懐こい笑みを浮かべて、男に声を掛ける。蜻蛉、と言うのが、この男の通り名である。
「嗚、まだ時間が早い。寄って行こうか」
蜻蛉も柔と目を細めて、暖簾を潜ると言った様子だから、町人に結構人気があった。
「刀を下げているくらいだから御武家だとは思うけど、御家人の三男坊って所じゃないかね。家を継ぐ必要が無いから、きっと刀なんて形ばっかりで、使わないんだよ。戦の道で家を立てるってよりは、なんだか歌や笛が似合いそうな顔立ちじゃないか」
男は自分の家は愚か、名前も明かそうとしないから、自然こんな噂ばかりが立った。が、一つも悪い噂はない。
この所、西欧勢力に押されて尊王だ攘夷だと騒がれている。江戸や京都じゃ、毎日のように人の死体が転がっている有様だと言うし、いつ戦が起きてもおかしくない乱世なのだ。
この小さな町では、斬捨御免の荒々しい武士などよりは、刀など使えもしないような者が歓迎された。
「蜻蛉の旦那、今日も喜田さんですか」
銭を置いた男に向けて、主が愛想のいい声で尋ねる。無論、男は其の為に街道を来たのだから、戸口で肩越しに顔だけ振り向いて一度だけ、頷いた。
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