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男が初めて喜田宿に現れた時、名を明かそうとしなかった。
此処は老舗で、素性の知らない者は泊めない。台帳にどこの誰を記入させる。殊に徳川の権力が揺らぐ昨今、脱藩者や薩長土の武士との係わり合いは避けたい。
「泊めて貰えないか」
男の言葉に訛はない。が、女中は
「困ります。せめて御名だけでも頂戴しないと」
「そう言うな」
男はすっと女中を抱き寄せ、斜めに顔を近付けた。
はっとしたのは女中である。口付けをされるかと思い、思わず目を閉じた。が、何も無い。恐る恐る目を開けてみると、男が薄く笑っていた。恥ずかしさで顔が赤くなる。
その隙を見て
「頼む」
男が、素早く手に銀粒を握らせた。
以来、男は数日に一度、宿にやって来る。いつの間にか顔馴染みになり、今は女将も
「あら、いらっしゃいまし」
と高い声を上げるようになっていた。
蜻蛉の名には由来がある。
夏の夕暮れだった。行燈の火を入れようとした女中が、男の泊部屋を開けて、驚いた。
(あ…)
男の横顔が余りに美しかったからである。すっと通った鼻筋を夕日に染め、通り抜けた風がそよそよと彼の前髪を揺らした。
切れ長の伏し目の先に、刀があった。歌でも詠んでいるのかと思えば、刀の手入れをしている所だった。
すらりと冷たい刃。
しかし刃よりも、男の触れるものを音もなく斬ってしまいそうな鋭い空気にあてられ、女中の膝が知らず震えた。
男が振り返った。張り詰めていた空気が一瞬で溶ける。
「どうした」
その頃には、ふっと微笑を浮かべている。
「いえ、刀を見るのは初めてで、少し驚いただけです。火を入れに」
「嗚、驚かせた。刀など飾りだよ」
男の声の割に丸みがあって柔い。女中はもう先程見た男の鋭敏な姿を、気の所為だと思っていた。その時である。
「あ、蜻蛉が…」
羽化したばかりの透明な蜻蛉が、刀の切っ先にそっと止まった。男は目を細め、眩しそうに先を見た。
「見ろ、蜻蛉さえも怖がらない」
困ったように、苦笑した。これには女中も笑った。
(可愛いお人)
宿の女中は皆、この男を好いていた。澄んだ水のような男だ。
以来男は「蜻蛉」と言う通り名が付いて、より親しまれるようになった。
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