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下の階から微かに電話のコール音がした。真治は怠惰から電話を取りにいく素振りすらしない。
すぐに電話の音は止み、代わりに法子の声が聞こえてくる。何かを話しているようだったが、すぐに道夫の太い声に切り替わった。
「お袋、どうしたんだ!」そう声を張り上げてから沈黙が訪れる。「親父が!」
真治がいる部屋は二階だというのに、会話する声が聞こえてきてしまう。それほど道夫の地声は大きい。真治が道夫を嫌う数ある理由のひとつでもある。
それにしても、道夫の父親がどうしたというのだろうか。真治は少しばかり興味を持った。
それから間もなくして、階段を上るスリッパの音が小さく響いてきた。部屋のドアがノックされる。強く叩いたわけではないのだろうが、ひとつひとつの音には苛立ちが入り混じっていた。
「真治、ちょっといい?」法子が部屋の外で言った。
法子だからと、真治は躊躇(ためら)いなくドアを開けた。しかし、法子の隣には道夫の姿もあった。間髪入れずに、真治の眉間にしわが寄せられる。
「真治、あのな――」
「何でお前がいるんだよ!」道夫の話をかき消すように、真治は怒鳴り散らす。
「真治、ひとまず話だけでも聞いて」法子がその場を取り仕切ろうと懇願する。いつもの気の強そうなぴんと張った眉や鋭い目尻はどこかへと消えてしまっている。
「そいつが部屋から出ていったら、聞いてやるよ」真治が乱暴な言い方をする。
「でも……」と法子が言い淀んだ時、隣から道夫が「最初で最後の頼みを聞いてくれ」と落ち着き払った声を放ってきた。
真治はうるさい道夫が神妙な面もちをしていることに驚いた。これはもしかすると、本当に緊急事態となっているのではないか。
ちっ。真治はわざとらしく舌打ちをし、「一回だけだからな」と不服そうに言った。
道夫の返事を待たずにベッドに座り込んだ。格好つけて窓際のヒメヒオウギに視線を向けながら聞く体勢を見せつける。
そして、その様子を伺いながら道夫がおもむろに口を開いた。「今年の夏休みは、俺の故郷で過ごしてくれ」
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