第二章 純白の中の漆黒

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 午前中の授業は瞬く間に終わり、昼食の時間になった。  いつも通りキユリは弁当を持って三年生の教室にやってくる。 「やあ、ジョージ君。今日はちゃんと起きてたかい?」  キユリは白い歯をこぼし、青い包みをジョージの机に置いた。隣の机をがたがたとにぎやかに動かしてジョージと向かい合わせにし、そちらには赤い包みを置いた。 「起きてたんだけどさ、まばたきした瞬間に昼休みになってた。タイムスリップしたかと思ったよ」 「あぁ、タイムスリップ、たまにあるよね」  キユリはうんうんと頷く。 「寝た覚えないのに『あれ、外明るい! もう朝!?』みたいな。でも今のキミに右のほっぺ真っ赤にするほどぐっすり眠る余裕あるのかな? そんなんだから補習なんかになっちゃうんだよ」  ジョージは反射的に頬に手を当てた。よだれもついていてみっともない。ごしごしとこすった。キユリは微笑して赤い包みを開けた。 「ジョージって寝る時左向く派?  あたし、寝るときは絶対右向いちゃう、落ち着かなくて。あ、でも今朝はジョージ右向いてたような」  キユリは顎に手を当ててウーンと唸った 「一晩向き変わってなかったらおかしいだろ。寝返りとか」 「それもそうか」  ポンと手を打つ。 「お前だって小さいころはいつの間にか枕の上に足乗っけて寝てただろ。掛け布団はベッドの下に落ちてるし」  小さいころはよく一緒に寝ていた。キユリは寝相が悪くて何度蹴りを入れられたことか。蹴り返してやったら頭突きを食らわされたこともある。 「そんな昔の話は知りませーん」  いつも通りジョージは青い包みを開ける。  いつも通りおかずもご飯もジョージの方が少し多い。  ちょっとしょっぱかったねとかこれはおいしいとか感想を言い合う。以前なんでもおいしいおいしいと食べていたら「何作ってもおいしいって言うから張り合いがない」とキユリが主張してきたので少し改善点を指摘するようにしたところ、見事にふて腐れて「せっかく作ったのに文句言うな」と理不尽全開で来られた。結局元の木阿弥であるが実際おいしいので不満はない。  いつも通り二人の周りに友達が集まってきてみんなで食べる。先生の口癖が今日何回だったとか、昨日おばあちゃんの入れ歯がどこかにいった話とか、取るに足らないことで盛り上がりながらいつも通り過ぎていく昼休み。  束の間の楽しみは束の間だから楽しいのだろう。一転して、午後の授業はジョージにとって永遠に続くように思える苦痛だった。  今日の学校生活は残念ながらまだ続く。マリベル・クリスティー先生が、誠にありがたいことにジョージ一人のための特別補習授業を組んでいた。帰り際に、キユリは「待ってようか?」と声をかけてくれたが、クリスティーは「随分かかると思いますのでどうぞお帰りなさい」と追い出してしまった。あれから三時間ほど経っただろうか。随分っていつまでやる気だ。 「居眠りしないのは褒めてあげますが……」  クリスティーは練習問題を解いたノートを見て、渋い表情を浮かべた。 さすがに一対一で対峙していては寝られないだろう、と言いたいところだが必ずしもそうとは限らない、経験上。 「ほとんど間違えています。ここ、そもそも問題を写し間違えています。それに字が汚すぎです。あとそれ」  顎をしゃくった。 「なぜ鉛筆が折れているのですか」  クリスティーが指摘したのは、ノートの横に転がっている鉛筆だった。鉛筆が折れているといっても芯が折れているのではない。鉛筆が真ん中から真っ二つになっていた。  ストレスが溜まって力いっぱい握りしめていたらこうなってしまったわけで、ほとんど新品だった四本の鉛筆がやけに短い八本に化けていた。 「想像以上に進みが悪いですね」  壁に掛けられた時計を見上げたクリスティーの眉間にしわが寄る。 「オレを見くびったな」  ジョージはせせら笑った。クリスティーは丸めた教科書でジョージの頭をスパーンとはたくと、 「見くびるという単語を知っていたのですね。使い方は違いますが」  痛烈にジョージを抉った。 「本当はこれを半分終わらせて、残り半分を宿題にするつもりだったのですが」 と、彼女は一旦教室を出て、台車に積んだ問題用紙の山と共に戻ってきた。 「ちょっと待て! それはやりすぎだって!」  積み上げられた紙山の高さは五十センチくらいある。  ぎゃあぎゃあ喚くジョージを無視し、クリスティーは顎に手を当てて考え込む仕草をした。 「そうですねぇ。この調子だと半分は大変でしょうから、三分の一ずつ進めるとしたものでしょう。パーキンソン、今日はもう遅いので帰って良いです。ただし、三分の一を宿題とします。明日までにやってきなさい。必ず! やってくること。明日、明後日も補習を行い、また三分の一ずつを宿題とします」 ジョージは口をぱくぱくさせていた。言葉にならない。  鞄に入らないでしょうから、と、クリスティーは問題用紙を紐で十字に縛って一つの束を作った。  ジョージの目の前にずいっと差し出す。 「……数学なんかできて、なんの役に立つんだよ」  苦し紛れに絞り出たのがこの台詞だった。我ながらみっともないと思った。こんなの負け惜しみだ 「こんな問題ごときを解けないあなたが、これからなんの役に立つというのですか?」  クリスティーの眼鏡がきらりと光った。ジョージは言い返せず、うっと呻いた。 「私もですね、なにもあなたをいじめようと思ってやっているわけではないのですよ。あなた方の年頃での勉強とは、言ってしまえばただの反復訓練です。この問題集、一見、量は多いかもしれませんが、ほとんど同じようなパターンとその組み合わせの問題ばかりです。知識や解法をあなたの血肉とするには、このくらいの量が必要だと判断しました。終盤まで進むころには見違えるようにすらすら解けるようになっていることでしょう」  クリスティーは滝のようにまくしたてた。 「だからって、この宿題は多い――」  口走ってからジョージはしまったと思った。クリスティーの眼鏡の奥が(らん)と光ったからだ。ここぞとばかりに彼女は畳みかける。 「宿題が最も大事なのですよ。親御さん含め勘違いしている方が多いですが、学校というのは知識を紹介するだけの場所です。その知識を習得する場は家での学習です。授業なんて聞かなくてもいいのですよ、えぇ寝ていたって構いません学力をつけてくれさえすれば。つまり、いかに私の授業が素晴らしくてもあなたが家で勉強しなければなんの意味もないということです。明日までにこれ全て片づけていらっしゃい。徹夜でもなんでもしなさい。一日二日無理したところで死にはしませんよ若いんだから」 「オレは剣で生きていく。将来はグロイスに行って軍に入る。勉強なんかできなくていい」  なおも食い下がった。どこかで折れないと長引くだけだとわかっているのに、考えるより先に口が動いてしまう。一度負け惜しみを始めてしまったジョージはこれ以上負けまいと頑なになっていた。  大人になってどう食べていくのかなど考えたこともなかった。グロイスへ行ったこともない。勉強できなくても軍に入れるかどうかなんて知らない。軍に入ると口をついたことに一番驚いたのは自分だ。クリスティーに言われっぱなしが悔しくて、つい思ってもいない反論をしてしまっただけだ。自覚しているだけにみじめだ。 「なるほど、きちんと将来を考えているようで大変よろしい」  だから、クリスティーの思いがけない褒め言葉にジョージは複雑な気持ちになった。 「確かに、剣に生きるのならこんな数学の知識は無駄になってしまうかもしれませんね。しかし、あなたはまだ子供です。目指す道が変わるかもしれない。腕っぷしだけではどうにもならない世界に進みたくなる、あるいは進まざるを得なくなることだってあるかもしれません。そうなった時困らないようにしておく責任が私にはあるのです。私はあなたの先生なのですから。人生の道筋を選ぶということは、裏を返せばそれ以外にあったかもしれない将来の可能性を捨てることを意味します。人は少しずつ可能性を捨てながら、選択しながら大人になっていきます。しかしあなたはまだその時ではない。今は可能性を高める時期です」  ぐうの音も出ないとはこのことだ。うなだれた頭が上がらなかった。
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