第二章 純白の中の漆黒

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悪霊の焔(インケンディウム・オブスクーリー)―  太陽がすぐそばに落ちてきたのかと思うほどのまばゆさだった。細長い炎の塊がまるで大蛇のようにマントの男をゆるゆると取り巻いていた。マントの男は鎌首をもたげる炎の大蛇をいとおしそうに撫でた。 ―追加契約(アデレ・パクトゥム)水の羽衣(クロッカ・アクアーリウス)―  こちらはガッドの呪文だ。キユリの姿が徐々に消えていく。ジョージの体も手足の先から胴体に向けて透き通っていき、ついに全身が飲まれた。 「透明化呪文があの者をどこまでごまかせるかは分からぬが、何もないよりはマシじゃろう。わしが奴を食い止める隙に逃げろ。くれぐれも気配は消すのじゃ。悔しかろう、怒りに震えるばかりじゃろう。しかし今は内に秘めておけ。然る時にその感情を力に変えよ」  ジョージは頷くとキユリを抱きかかえて立ち上がった。足は撃たれる前よりむしろ調子が良いくらいだった。  三人をすっぽりと覆っていたドーム状の魔法障壁が、マントの男とこちらを隔てる一枚の壁に形を変えた。ガッドが魔法障壁の出力を全方位から一方向に集中させたのだ。  走り出そうとして一歩踏み出したところで、ジョージは振り返った。 「村長」 「なんじゃ、はよ行かんか」 「いや行くけどさ」  シッシッてやらなくもいいじゃん、ハエじゃあるまいし。 「あんたも歳だし、無理はしないでくれ」 「はっ、余計なお世話じゃ。まだまだ若いモンには負けん」 「悪い。頼んだ」  ガッドが親指を立ててニッと笑ったのを見届け、ジョージは飛び出した。街道へ出るため、まずは近くの街灯を目指して丸太を跨ぎ、瓦礫を飛び越え、ジョージは枯れ野を一直線に走った。  街道に合流したところで右肩に鼻息が触れた。村一番の駿馬と名高い白馬、疾風が気づかないうちに並走していた。  キユリを先に鞍に座らせ、落馬しないように支えながらジョージも飛び乗った。この動作に疾風が上手く合わせてくれているのがわかった。気を失っているキユリを仮に一人で跨らせておいても落馬しないのではないかと思えるほどだ。 「よし、頼む」  鉄砲玉のように疾風は加速した。  背後で雲をも突き抜ける火柱が上がったが、ジョージは無心で駆け続けた。 ほんの二、三分で、疾風はバース通りの南端まで差し掛かっていた。すでに二人を隠す透明化呪文「水の羽衣」は効力を失っている。呪文が解ける時、それはつまり術者が呪文を維持できる状態ではなくなったということだ。その先は努めて想像しない。  うろたえるな! 急げ! もっと速く! 村長が作ってくれた時間を無駄にするな! キユリを救うんだ!  夜にはほとんど人通りのなくなるバース通りであるが、さすがにあの火柱の後だ、多くの村民が外に出て心配そうに南の空を見上げながら話し込んでいた。  人ごみを避けるため、通りの裏手に回って北へと駆け抜ける。  バース通り北端の村長宅を過ぎ、疾風は針葉樹が生い茂る森に全くスピードを落とすことなく突入した。人が普通に歩くことすら困難なほど複雑に絡み合ったこの白烏の森においても、疾風は滑らかで優美な走りを見せた。木の間を縫い倒木を飛び越え疾駆しているはずなのに、乗っている感想としては平地を散歩しているのと大差ない。木のほうが馬を避けているみたいだった。  生い茂る枝葉で空も見えない森の一角に、円形にぽっかりと開けた場所がある。祠はその広場の中心に建っていた。  木で組まれた小さな祠の中には御神体が納められているという。広場一帯はガッドによって複雑な認識阻害の術が施されており、祠の場所を知る者が直接案内するか、道順を正確に教えるかしなければ辿り着けないようになっていた。  もし何も知らずにたまたま祠に近付くようなことがあれば、その者は急用を思い出してもと来た道をさっさと引き返すはめになる。パック流剣士は祠の在りかを知る数少ない者たちだが、決して他人に口外しないという誓いを立てていた。  パック・オルタナの他に五人の剣士が祠に集結していた。ジョージの兄弟子たちである。二十歳を過ぎたくらいの若者が四人に、一際強面の長兄役が一人。周りを四本の大きなたいまつが囲んでおり、炎の揺らめきとともに彼らの影がゆらゆらと踊っていた。 「先生!」  白毛の駿馬は、先刻までの豪速が嘘のようにパックのすぐ隣にぴたりと止まった。ぼさぼさな、良く言えば無造作にまとめた黒髪。目じりに三十二歳相応のしわが入っているものの、全体で見れば歳よりは若く見える。パックは自身の身なりに頓着しないタイプである。 「キユリを! 早く診てくださいッ」  パックは疾風からキユリを降ろしてその場に寝かせた。正確には、キユリの身体が冷たい地面に直接触れないようにわずかに浮かせた状態である。 「村長は、魔弾丸に呪いが込められていたって! あとそうだ! 村長もヤバイかも! かけてくれた呪文が切れて……」 「ガッドさんは大丈夫だ。心配するな」  早口でまくしたてるジョージを遮ると、パックはキユリの右胸に手のひらをかざした。彼女の服は血に染まり、もはや元の色が分からなくなっていた。 「これは……」  パックは神妙な顔付きでつぶやいた。 「ちょっと、先生!?」  嫌だそんな待ってあんたなら、 「大丈夫ですよね! ね!?」  馬上から食ってかかるジョージをパックは厳しい表情のまま見上げて――意地悪っぽくニッと笑った。 「これは、もう少し遅けりゃ痕が残っただろうぜ? 女の子なんだからよ、お前ちゃんと気をつけてやんなきゃ」 「なっ……」  ジョージはパックをぶん殴りたい衝動をやっとのことで抑えこんだ。 「まあ見てな。俺にかかりゃーこんなもん、ちょいちょいっと治してやるからよ」  パックは銃創の上で指を横に払った。キユリの服が裂け、痛々しい傷口が露になった。傷口と一緒に胸も露出した。ジョージはものすごい勢いで顔を背けた。  パックはキユリの隣にどっかりとあぐらをかき、再度傷口に手をかざした。パックの口からは静かに、歌うような韻律が紡がれる。 「ジョージ」  パックは詠唱の合間に器用に言葉を挟む。 「疾風は帰しておけ」  ジョージが疾風から降りると、美しい白馬は一時キユリに心配そうな眼差しを向け、森へと消えていった。 「全員、『魔法の盾』全力展開」  その瞬間、背中に熱した刃を押し当てられたような激痛が走った。ぎゃっ、という声にならない叫びが漏れた。痛みに耐えられず、うつぶせに倒れ伏す。 兄弟子たちが自分に剣を向けているのが見える。背中の痛みは強くなる一方だ。
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