断章 黒き大地

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 荒涼とした大地に小さな影が一つ、ぼんやりと映っていた。空は雲一つなく澄み渡っている。四方に水平線を望む。海に囲まれたこの島は聖地と呼ばれる。小さな影は黒々とした剥き出しの山肌を滑るように移動していた。  飛行しているのは回転翼航空機、早い話がヘリコプターであった。汎用高速ヘリ「スヴァンフヴィート881ファルコー」。単にスヴァンフヴィートとだけ呼称されることが多い。  影が徐々に大きくなっていく。回転するローターが空気を引き裂く。地上は砂埃に荒れ、まるで黒い砂塵のようだった。かくして、スヴァンフヴィートは目的地である聖地・天王山山頂に着陸したのである。  機体には翼を大きく広げた勇壮な鳥を象ったエンブレムが描かれている。当機が政府専用機である証だ。正式には海軍所属機だが、戦闘には参加しない政府専用機として塗装、内装、装備品がカスタマイズされている。  砂埃が晴れるのを待たずにスヴァンフヴィートから降り立ったのは、黒いローブを着た三人の男だった。艇と同様のエンブレムが銀の刺繍で左胸に刻まれているのに加え、襟元に光るのは鳥の羽根を模した白いバッジ。エンブレム入りのローブは上級官僚や佐官級以上の軍人に着用が許される。そして襟元に光る鳥の羽根のバッジは彼らがさらに特別な身分にあることを示している。 「随分と様子が変わった」  腰まで届きそうな長髪を押さえながら一人の男が言った。三人の中では最も背が高くがっしりとした体つきだ。地面を踏みしめるとさらさらとした砂が舞った。帰るころには靴の中まで砂っぽくなっていそうなくらいに細かい粒子だった。 「プーゲン卿、参ろう。ラム卿、測定を頼む」  モリアーティー公国の国民なら誰もが知っているおとぎ話の中で、聖地についても語られている。  かつてこの地には花が咲き乱れ、小動物がちょこちょこと駆けていたという。風は踊り、花びらが舞う。雨が降ればその後虹がかかり、葉っぱの先からは雫がぴんと落ちる。  昔話の中で語られる聖地はまるで童話の世界。人が忘れ去った理想の園であった。  しかし、現在の聖地・天王山にはその面影はない。さすがにおとぎ話のメルヘン世界とまではいかないまでも、十数年前までの聖地には森と草原、人の手の入らない自然そのままの大地が広がっていたにもかかわらずである。  聖地を覆っている黒い砂は、かつては木や草や花、動物として命を紡いでいたもののなれの果てだ。今や手にすくっても指の隙間から流れ落ちて一粒も残らない。  黒い砂以外のものといえば、彼ら――長髪の男とプーゲン卿と呼ばれた老人の目の前にそびえる神木イグドラシルがそれだ。  長髪の男――モリアーティー公国神官団長シャカは、幼少期に祖母から聞いた話をおぼろげながらに覚えている。 「……そしてね、聖地の真ん中の山には、世にも珍しい光る樹が、それはもう立派に立っているそうな。人はいつかその樹へ帰ると言われているんだよ。一目見てみたいねぇ」  いつか帰るならおばあちゃんも絶対見られるよ、と無邪気に答えた。そうだねぇ、もう少ししたら行けるかねぇ、と祖母の表情が寂しげに見えた理由はそう遠くないうちにわかった。  イグドラシルは日の光に負けないくらい爛々と輝いていた。時折、綿毛のような光がひらひらと風に乗りながらこぼれ落ちてくることもある。世界広しといえど、イルミネーションもなしにピカピカ光る樹など滅多に見つからないだろう。  しかしシャカが十数年前に初めてイグドラシルを目の当たりにした時、光ることよりもむしろに大きさにずっと驚いた。山から木が生えているのではない。イグドラシルの根に土が被さったものこそが聖地・天王山である。木の根が一つの山を構成しているほどの巨木だ。地上から見上げると、最も低い位置にある枝すらも雲の中に霞んでいた。  イグドラシルは現世と死者の国を繋ぐ存在だと言われている。人は死ぬと魂だけの存在となり、世界樹イグドラシルに乗って死者の国ニブルヘイムへ行くのだ。  祖母は、今眼前にて君臨している樹を、魂となって見たはずだ。    イグドラシルの根元では、二本の棒が交差して地面に刺さっていた。両方とも人の身長くらいの長さ。よく似た形だが、彫り込まれた龍の姿と、先端に埋め込まれた宝玉の色が違う。一つは緑、もう一つは白だった。  二本の棒を中心に、シャカとプーゲンは大地に模様を描いていく。幾何学模様、文字、記号の組み合わせ。つまり、これは魔法陣であった。二人は半径二メートルほどの大型魔法陣を、五分とかからず描き上げた。  シャカとプーゲンは魔法陣の中心に立ち、二本の棒にそれぞれ手を乗せた。すると、まるで細い水路が徐々に水で満たされていくかのように、魔法陣を構成する線は内側から外側へと光を発していく。  詩を朗読するかのように高らかに呪文を唱える。二人の声とは思えないほどにぴたりと重なっていた。 ―夫れ混元(まじりしはじめ)は既に凝れど、気象(かたち)未だ(あらわ)さず。名無く(なすこと)無く、誰も其の形を知らず。然れども、乾坤(あめつち)に初めて分かれ、三神は矛を()り威を挙げ、猛き(つわもの)(けぶり)()ち、六師(りくし)雷進し三軍(みいくさ)電逝(でんせい)す。二気の正しきに乗り、五行の(はじめ)(いつ)く。神の理を(そな)え以ちて(ならい)(すす)め、英風(えいふう)を敷きて以ちて国に(ひろ)む……―  呪文の呼びかけに応じるかのように、空中に魔法陣が三つ現出した。  三つの魔法陣が起点だった。樹形図のように、さらなる魔法陣が新たに出現して連なりながら上空へと広がっていく。さながら頭上に巨大な花が咲くかのようだ。  二人は歌いながら棒から手を離し、ゆっくりと後ずさりしていった。そして地面の魔法陣から一歩外に出たところで声量を落とし始め、やがて消え入るように口を閉じた。三桁を数える大小の連鎖魔法陣が空間を埋め尽くしていた。 「あー……、普通じゃ普通。問題なし」  上下左右にせわしなく顔を動かしたプーゲンは顎を撫でた。 「ふむ……」  シャカは唸った。同意見だった。連鎖魔法陣の形は書物で何度も見ており、模様、記号の一つ一つまでもが頭に焼き付いている。違いは見当たらなかった。 「封印術はルチフェル戦役期から変わらず機能している。だが……」  千年前に勃発した大戦、それがルチフェル戦役である。悪の召喚士が喚んだ冥王ルチフェルと、人間・エルフ連合軍の戦いであったと伝えられている。「いくつかの大陸が沈み、いくつかの大陸が生まれるほどの戦いであったそうな」などと大仰に語る者もいるが、どこまで本当なのかは定かではない 。  連鎖魔法陣は冥王ルチフェルに対する封印術であった。二本の杖が楔となって、冥王ルチフェルを聖地に縫いとめ、ルチフェル戦役は終わりを迎えたのだ。  プーゲンはふーっと深呼吸して気持ちを落ち着けた。 「さて、封印術が正常だとして、しかし昨今イグドラシルは死者の魂を正常に冥界へと送り届けることができておらぬ。冥王の関与を切り離しては考えられまい。我々の思いの寄らぬ方法で力を取り戻そうとしているのかもしれぬ」  二人はしばらく無言で魔法陣を見上げていた。やがて、再び杖に近づき、手を乗せた。連鎖魔法陣は、展開を逆再生するように収束していった。プーゲンはふう、と首をさすった。上を見上げ過ぎて首を痛めたらしい。 「なんだプーゲン卿、じじくさい」  初めてシャカの表情が緩んだ。 「じじくさいんじゃなくて、老い先短い紛うことなきじじいじゃよ。じゃから面倒ごとはもうわしには寄こさんでくれよ? 若いもんでなんとかしてくれ、わしは回ってくる書類にぽんぽんハンコ押すだけがいい」  プーゲンはしゃんと伸びていた背中を丸め、しわがれ声で言った。 「何を言うか。お前にはまだまだ最前線で働いてもらわねば」 「え? なんて? 最近耳が遠くての。目も見えんし手の震えは止まらんし、最近なんて尿漏れに徘徊に……。もはやハンコも押せるかわからんわい」 「……お取込み中申し訳ありません。シャカ様、プーゲン様」  シャカとプーゲンの両卿は、さっと真顔を取り繕って振り返った。ラムが気まずそうに立っていた。ラムは三人のなかで最も若い三十三歳。シャカとは十五も違う。 「いつからいた?」  プーゲンの背筋が急に伸びた。頬が若干紅潮している。 「お二人が魔法陣の展開を閉じたくらいからですが。いかがでしたか、封印は?」  ラムは努めてプーゲンの茶番には触れなった。気を遣っているのが明らかだ。かえってノリノリで「尿漏れジジイにハンコのお願いなのですが」くらい言ってのけたほうがプーゲンにとっては気が楽だろうが、まだ若い神官、しかもプーゲンの元部下であるラムにそこまで求めるのは酷だろう。 「問題なかった」  仏頂面のプーゲンに代わってシャカが答えた。 「だが準備を進めておく必要がある。ユネハス訪問の件、早められるか? 必要ならばプーゲンも連れて行け」 「えぇ?」  プーゲンがうめいた。 「聞いとらんぞ」 「今考えた」  シャカは軽い調子で言った。 「良いか、ラム……卿」  呼び捨てで呼びそうになったのをぎりぎりで取り繕う。ラムがまだ一介の役人であったころの癖が抜け切れていないが、今の彼は白い羽根を身に着ける立場にある。 「この耳が遠くて老眼が進んで手足が震えて尿漏れ頻発の徘徊ジジイはだな」 「酷い。パワハラじゃパワハラ」 「老い先短いがまだまだ役に立つ。使えるうちに使っておけ。遠慮していると肝心な時にはこの世におらんぞ」 「わかりました」 「わかりましたじゃないわ。小童が言うようになりおって」  プーゲンはラムを小突いた。一同は声をあげて笑った。  辺りが少し暗くなった。太陽が雲の影に入ったのだ。 「シャカ様、これを」  ラムはシャカにタブレット端末を渡した。シャカは画面に指を滑らせた。  彼の表情が険しくなった。  プーゲンがシャカの背後から画面をのぞき込んだ。 「あちゃー。だいぶ悪化しとるの」  表示されているのは、とある右肩上がりのグラフだった。測定を始めた十年前からの推移に今回の測定結果を加えてある。最初は徐々に、そしてここ二、三年の伸びが急だ。今回の結果も傾向は変わらず、頭打ちの気配はない。 「のんきに笑っている場合ではなかった」  シャカが毅然と言った。 「早急にこの地を離れる」 プーゲンとラムは無言でうなずいた。  ローターが再び高速回転を始め、スヴァンフヴィートは飛び立った。シャカは振り返り、遠ざかっていくイグドラシルを窓越しに見据えた。  シャカの祖母が亡くなったのは三年前のことだ。齢百を超えた大往生だった。願わくは、無事に死者の国に旅立っていますように。三年もの間、生命の息吹のかけらもないこの地で足止めはむご過ぎる。さすがの祖母もイグドラシルなど見飽きるだろう。
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