第一章 黒き大地

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 荒涼とした大地に小さな影が一つ、ぼんやりと映っていた。空は雲一つなく澄み渡っている。四方に水平線を望む。海に囲まれたこの島は聖地と呼ばれる。小さな影は黒々とした剥き出しの山肌を滑るように移動していた。  飛行しているのは回転翼航空機、早い話がヘリコプターであった。汎用高速ヘリ「スヴァンフヴィート881ファルコー」。単にスヴァンフヴィートとだけ呼称されることが多い。  影が徐々に大きくなっていく。回転するローターが空気を引き裂く。地上は砂埃に荒れ、まるで黒い砂塵のようだった。かくして、スヴァンフヴィートは目的地である聖地・天王山山頂に着陸したのである。  機体には翼を大きく広げた勇壮な鳥を象ったエンブレムが描かれている。当機が政府専用機である証だ。正式には海軍所属機だが、戦闘には参加しない政府専用機として塗装、内装、装備品がカスタマイズされている。  砂埃が晴れるのを待たずにスヴァンフヴィートから降り立ったのは、黒いローブを着た三人の男だった。艇と同様のエンブレムが銀の刺繍で左胸に刻まれているのに加え、襟元に光るのは鳥の羽根を模した白いバッジ。エンブレム入りのローブは上級官僚や佐官級以上の軍人に着用が許される。そして襟元に光る鳥の羽根のバッジは彼らがさらに特別な身分にあることを示していた。 「随分と様子が変わった」  腰まで届きそうな長髪を押さえながら一人の男が言った。三人の中では最も背が高くがっしりとした体つきだ。地面を踏みしめるとさらさらとした砂が舞った。帰るころには靴の中まで砂っぽくなることが容易に想像できるくらいに粒子が細かい。 「プーゲン卿、参ろう。ラム卿、測定を頼む」  モリアーティー公国の国民なら誰もが知っているおとぎ話の中で、聖地についても語られている。  かつてこの地には花が咲き乱れ、小動物がちょこちょこと駆けていたという。風は踊り、花びらが舞う。雨が降ればその後虹がかかり、葉っぱの先からは雫がぴんと落ちる。  昔話の中で語られる聖地はまるで童話の世界。人が忘れ去った理想の園であった。  しかし、現在の聖地・天王山にはその面影はない。さすがにおとぎ話のメルヘン世界とまではいかないまでも、十数年前までの聖地には森と草原、人の手の入らない自然そのままの大地が広がっていたにもかかわらずである。  聖地を覆っている黒い砂は、かつては木や草や花、動物として命を紡いでいたもののなれの果てだ。今や手にすくっても指の隙間から流れ落ちて一粒も残らない。  黒い砂以外のものといえば、彼ら――長髪の男とプーゲン卿と呼ばれた老人の目の前にそびえる神木イグドラシルがそれだ。  長髪の男――モリアーティー公国神官団長シャカは、幼少期に祖母から聞いた話をおぼろげながらに覚えている。 「……そしてね、聖地の真ん中の山には、世にも珍しい光る樹が、それはもう立派に立っているそうな。人はいつかその樹へ帰ると言われているんだよ。一目見てみたいねぇ」  いつか帰るならおばあちゃんも絶対見られるよ、と無邪気に答えた。そうだねぇ、もう少ししたら行けるかねぇ、と祖母の表情が寂しげに見えた理由はそう遠くないうちにわかった。  イグドラシルは日の光に負けないくらい爛々と輝いていた。時折、綿毛のような光がひらひらと風に乗りながらこぼれ落ちてくることもある。世界広しといえど、イルミネーションもなしにピカピカ光る樹など滅多に見つからないだろう。  しかしシャカが十数年前に初めてイグドラシルを目の当たりにした時、光ることよりもむしろに大きさにずっと驚いた。山から木が生えているのではない。イグドラシルの根に土が被さったものこそが聖地・天王山である。木の根が一つの山を構成しているほどの巨木だ。地上から見上げると、最も低い位置にある枝すらも雲の中に霞んでいた。  イグドラシルの存在こそがこの島が聖地と呼ばれる所以である。イグドラシルは現世と死者の国を繋ぐ存在だと言われている。人は死ぬと魂だけの存在となり、イグドラシルに乗って死者の国ニブルヘイムへ行くのだ。  祖母は、今眼前にて君臨している樹を、魂となって見たはずだ。  イグドラシルの根元では、二本の棒が交差して地面に刺さっていた。両方とも人の身長くらいの長さ。よく似た形だが、彫り込まれた龍の姿と、先端に埋め込まれた宝玉の色が違う。一つは緑、もう一つは白だった。  二本の棒を中心に、シャカとプーゲンは大地に模様を描いていく。幾何学模様、文字、記号の組み合わせ。つまり、これは魔法陣であった。二人は半径二メートルほどの大型魔法陣を、五分とかからず描き上げた。  シャカとプーゲンは魔法陣の中心に立ち、二本の棒にそれぞれ手を乗せた。すると、まるで細い水路が徐々に水で満たされていくかのように、魔法陣を構成する線は内側から外側へと光を発していく。  詩を朗読するかのように高らかに呪文を唱える。二人の声とは思えないほどにぴたりと重なっていた。  呪文の呼びかけに応じるかのように、空中に魔法陣が三つ現出した。  三つの魔法陣が起点だった。樹形図のように、さらなる魔法陣が新たに出現して連なりながら上空へと広がっていく。さながら頭上に巨大な花が咲くかのようだ。  二人は歌いながら棒から手を離し、ゆっくりと後ずさりしていった。そして地面の魔法陣から一歩外に出たところで声量を落とし始め、やがて消え入るように口を閉じた。三桁を数える大小の連鎖魔法陣が空間を埋め尽くしていた。 「あー……、普通じゃ普通。問題なし」  上下左右にせわしなく顔を動かしたプーゲンは顎を撫でた。 「ふむ……」  シャカは唸った。同意見だった。連鎖魔法陣の形は書物で何度も見ており、模様、記号の一つ一つまでもが頭に焼き付いている。違いは見当たらなかった。
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