〓馬超

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その後、キョ族を集めて再び曹操軍を攻めたが敗走し、漢中の張魯を頼って落ち延びたが、張魯は頼りなく、その軍内でも馬超の人との折り合い上手くいかなかった。そんな時に劉備が成都攻略していると聞き、馬超は密書を送って投降を申し出た。劉備は使いをやり馬超を迎え、これで益州は我がものになったも同然だと喜んだという。 この時、関羽がわしと馬超とどちらが上かと孔明に手紙を出したそうだ。それを見て孔明は笑いをこらえながら手紙の返事を書いたとか。(関羽意外に繊細だな) 涼州を追われたとはいえ、長らく独自の勢力を張り、曹操と戦った馬超の盛名は高く、馬超がきたるの報が伝わると、劉ショウはますます戦意を失い城を明け渡した。 六年後、劉備が即位すると馬超は涼州牧の称を与えられたが、章武二年、劉備の没する前年に死んだ。四十七歳だった。 それからの孔明の苦闘を想えば、いましばらくの健在を願った人は多いはすだ。 そして本当かどうかは分からないが馬超は、肌は白く、紅をさしたような唇、腰は細く肩幅は広いく美丈夫であると曹操にいわれていたそうだ。(曹操って…;)image=122019193.jpg
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