義経生存説

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奥州平泉、衣川の高館にて、平泉の当主、藤原泰衝の命により、殺害される。(衣川の戦い) 義経にはいくつかの生存説がある。北海道に行き、その後、大陸に渡りチンギス・ハーンになったという説もある。 この説の根拠としては、彼らの生きた時代が、共に1159年頃である事や、名前を音読みにしたときの、源義経(げん・ぎけい)とチンギス・ハーンの発音が似ているという事や、どちらも戦に馬を使い、得意とした事(この当時、騎馬隊が無かった)そして、軍の旗が共に白だった事が挙げられる。 しかしこの説には、無理があるのです。 日本にはこの時代、すでに史実を文章に残す風習はあるが、モンゴルでは、口にて、口頭伝承が当たり前。故に、信憑性に欠けるのだ。 早い話が、彼らが同じ時代に生きていたという、物的証拠が無いのである。 名前の発音に関しても、もともとハーン(カン)とは、長という位を表す言葉なので、経(けい)に替わる言葉が見当たらないのです。 なのでこの説は、共通点の多さが作った、物語ではないかと思います。 では、義経は本当に衣川で亡くなったのか? これに関しては、まだ疑問が残ります。
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