徳川埋蔵金と松尾芭蕉

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徳川埋蔵金とは初代将軍家康が、戦の軍資金として、金を隠したことから始まる。 その隠し場所というのが、有名な日光東照宮なのだ。 これは、徳川でも何人かの人間にしか教えられなかった。 その隠し場所から誰が移したのかは分からないが、それに付いては、触れないでいこう。 徳川には服部半蔵という、闘将がいた。 彼は伊賀と甲賀の忍者たちの長でもある。 半蔵は戦国の世が終わり、自分の仕事はもうないと、「世の中を旅して回りたい」と、いったので家康は許可を出した。 そしてその功績を讃え、江戸城に半蔵門と名付けた。 そして半蔵は旅立つにおいて、松尾芭蕉の名を貰い使った。 根拠は、一日の移動距離! 芭蕉は齢70を越えたお爺ちゃんにもかかわらず、尋常じゃない距離を移動したといわれる。 これは元忍でなければ無理な距離である。 二つ目は、詩にある、芭蕉は俳句で有名だが、ある詩も歌っている。 それは、かごめの歌である。 このかごめの歌は、徳川埋蔵金の場所を示しているのである。 埋蔵金の場所をしっているということは、ランクの上の人間だった証拠なのである。 かごめの歌のどこが、埋蔵金を示しているのか。 「かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出会う 夜明けの晩に 鶴と亀が滑った 後ろの正面誰」というのが歌詞である。 これを解明していこう。 かごめは「籠目」と書く、鳥を入れておく籠の、目の事である。 籠の目は△と▽の二つが重なった形をしている。 6芒星の形である。 徳川縁の寺を線で繋ぐと6芒星になる。 次に、中の鳥は、の部分は「中の鳥居は」と解釈する、そうすると、繋いだ線の中で、徳川に関係のある鳥居がある神社は、日光東照宮である。 夜明けの晩とは、文字道理、日の出と解釈する。そして東照宮に行ったことのある人は分かるが鶴と亀の像があるのだ。 日の出はまだ、日が低いため、影が長く伸びている、これを「鶴と亀がすべった」と表現している。 その影が伸びている方向には、徳川の墓がある。 最後の「後ろの正面」とは、その墓の後ろには、6芒星があり、星のまわりの小さな三角の上の部分が無い形になっている。 つまり後ろの正面は、その墓のことである。 そこに家康は金を隠したのだ。 今現在は、最後の15代将軍が、掘出しに行ったが、その時には無くなっていたのだ。
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