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目を醒ますと、泣いていた。
男はシンプルな作りのベッドの上で上半身だけを起こした。
何年ぶりだろうか、涙を流すなど。
それもよりによって夢に涙するとは。
男は驚きと共に怒りにも似た悲しみを感じていた。
両親が死んだときも、最愛の妻を失ったときでさえも、この身からは一滴の涙も湧いては来なかった。
仕事柄、死には慣れていた。
悲しくなかった訳ではまったくない。
ただ、この体はそれを表す術を持ち合わせてはいなかったのだ。
その分、悲しみは男の心を深くえぐった。
悲しみを忘れるために心を殺した。
喜びや安楽と共に。
男は乾きかけた涙を親指で拭うと、ベッドから降り体を洗面所へと運んだ。
顔を洗う。
冷たい水が男の意識を覚醒させる。
既にさっき見た夢の内容など忘れていた。
洗面台に手を突き、鏡に映る男を睨みつけた。
短い黒髪に痩けた頬。
瞳の色素は生まれつき薄く、濃いグレーの鋭い目つき。
太い首に続く体は筋骨逞しい。
名前を犬神 憲一と言う。
日本国陸軍少尉。
それが今の彼を表す全てだった。
歳は29歳。
妻には先立たれ、子供はいなかった。
天涯孤独の身、という訳ではなかったが、親族との繋がりは希薄だった。
しばらく鏡に映る自分を睨みつけた後、何かを洗い流すかのように再び顔を洗うと、洗面所を後にした。
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