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沈む船から一目散に逃げていく妻と子を見て、ただ一人船に残る男は悟る。
「俺の人生に、何の意味があったのだろうか」と。
一度疑念にかられれば、最早それを払拭する事は出来ない。
時間に表せば数時間、しかし男にとっては今までの人生に匹敵する思考。
己の人生、その価値、密度、そして、その果てに手に入れたもの。
そこまで行き着いた後、男は自分には何も無いことを自覚した。
いや、最初から分かってはいたのだ。
ただ、それを解りたくなかっただけ。
自分を振り返るという行為を経て、現実を受け入れる心構えをしたに過ぎない。
男は落胆するでもなく、愕然とするでもなく、ただ
「やっぱりか」
と誰も応えぬ宙に向かって一人呟いた。応えぬ分、誰にでも平等な空はただひたすらに青く爽快で、その鮮やかさが男の暗部を更に色濃いものへ変えていく。
ただ己の人生に絶望し、後悔し、憤怒し、どのくらいその場に立ち尽くしていただろうか。
名前も知らぬ誰かと不意に肩がぶつかった事により、いつの間にか立ち止まっていた事に男は気付く。
と同時に、現実に引き戻された身体は主の状況などお構いなしに栄養摂取を要求する。
そこで初めて男は朝から何も食べていないことを自覚し、しばし悩む。
食事をしようがしまいが命を断つことに変わりはない、ないのだけれど、男の足は喫茶店へと向いていた。
たった一人の最後の晩餐。
美食家はニッコリと笑った。
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