127人が本棚に入れています
本棚に追加
瞬間、響子の眉が顰められた。
正直に言うと、さっさと大家と別れ、早々に自室に帰りたかったのだ。
長旅であったし、荷物も解かないといけないし…と、言うのは建前で、やはり大家と長らく一緒には居たくなかったのである。
そんな響子の顔の心情を知ってか知らずか、大家はへらへらと薄ら笑いを浮かべながら、再び響子へと歩み寄って来た。二人の距離が、縮まる。
「いや、長い話じゃあないんですよ。ひひ。
その、ほんと、二言三言ですから」
「…はぁ」
じゃり、と音がして、大家の履くゴムのサンダルが、砂を噛む音がした。
乾いた初春の風が、響子の輪郭を撫でる。
生臭い老人の口臭を漂わす大家は口を開けると、
「――このアパートにはね、住人通しの決まりがみっつ。あるんですよ」
人差し指を顔の横辺りに立て、潜めた声でそう囁くと、大家は響子の顔を覗き込んだ。
反射的に響子は身体をのけ反らせ、その結果、身体の後ろに追いやられた腕が、鉄のドアにぶつかった。ごん。小さく鈍い音がして、響子はごくりと唾を飲み込んだ。
意味もなく、その大家の雰囲気に気圧されている様な気がした。
…す、と、大家の人差し指が、響子に向けられる。
「ひとつはね、
………お互いの家にはあまり干渉しないこと」
す。大家の指が、二本に増える。
「もうひとつは、
…住民達の関係を良好に保つ為に努力すること……ひひ」
す。大家の指が、三本に増える。
「最後の一つは…、
自分でした事の後片付けは、自分ですること…」
「……………!」
言い終えると、大家はにまぁ、と笑って、静かに身体を退いた。
今の今まで覗き込まれていた響子は、眼を丸くして、浅い呼吸を繰り返している。
ただ、単に住民通しの暗黙のルールの様なものを伝えられただけなのに…体温がぐっと下がって居る様な気がした。
最初のコメントを投稿しよう!