伊達植宗

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1558年4月長尾家が風前の灯になっていたおり、突然武田と不和になり同盟解消となった。そんなおりもおり佐竹家が不穏な行動を、していると一報がはいる。植宗は怒り狂い直臣5000を率い出陣それに従うようにして諸城から約10000名が参陣す。その頃重臣の多くは、最前線におり植宗を押さえる者は誰一人としていなかった。植宗は降伏せば命を助けてると言い、降伏せねば一族郎党まで皆殺しにすると言った。さすがの屈強な佐竹一族籠城で、一ヵ月城を守り抜くされど少しづつ崩れ始めていた。一ヵ月半も経つ頃続々と寝返りの者達が現れ陥落。三ヵ月経った頃佐竹一門の首は植宗の前に並べられそれを、肴に祝宴を開くが、その後米沢城への帰路の途中突然倒れられ急死する。1558年7月28日奥州の古狸伊達植宗逝く享年71
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