(一)

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 その夜は何かしらいつもと違う気がしていた。どこがと言われると説明に困るのだが、とにかく妖しい気配が漂っていた。  霧に霞んでボゥーっとした月が中空に浮かんでいる。遠くからあの犬の遠吠えが聞こえ、琵琶湖の湖面は月の明かりを受けて鈍く光っている。霧の中に景色の輪郭は滲み、異空間のような印象だ。世界が溶けてしまうような気がした。こんな夜には何かが起こる。  変化の無い毎日を過ごしている私は、その何かが起こるのを心待ちにしていた。例え次の瞬間世界が砕け散っても、それをこの目で見たい。私はベランダの椅子に座り、ウィスキーをグイグイやっていた。    朦朧と酔っていた。指先まで酒が回っているようだ。体がフワフワしていた。  ぼんやり辺りを眺めていると、霧の切れ間から、突然、月がカーンとした光を放った。一瞬目を覆いたくなるほどの光だ。  しかし、それも一瞬のことで別段何も起こらなかった。  確かに光ったよな……と思いながら、私はまたグラスを傾けた。  辺りは元のままだ。更に霧が立ち込め、湖面は鈍く光り、犬がまだ哭いている。  勘違いかな……そう思った。まあ、いいや、それにしても強い光だったなぁ……そんなことを思いながら飲んでいると、体がフワっと浮いたような気がした。なにか水の中を漂っているような感じだ。  何かおかしい、そうは思ったが頓着せず更にグラスを傾けた。すると、体が更に浮いたような気がした。  霧がいつの間にかベランダにも忍び寄り、自分の足元さえ霞んで見えた。  体がフワフワするのは酔いのせいだろうと思った。しかし、それにしてはおかしい。どうにも収まりが悪い。頼りなくて仕方がないのだ。  キョロキョロ辺りを見回すと、どうやら私の体が宙に浮いているようだ。辺り一面霧に覆われてしまい、目の前のテーブルさえ霞んでしまったのだが、手を伸ばしても空を泳ぐだけなのだ。  慌てて体をバタつかせると、足が手すりに触れた。足首を絡ませ力をこめた。ようやく手すりを握り、体を元に戻した。  何なんだ、これは。  必死で考えたが、体が浮き上がった理由など判る訳がない。  私は戸惑い、グラスのウィスキーを一気に流し込んだ。すると、また体が浮いた。  まてよ……酒か? 酒のせいか?   ハァハァと肩で息をしながらじっとしていると、程なくして体が下がりベランダに足が着いた。  ……嘘だろ……こんな事ってあるのか……。
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