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違うんだ。彼はただ走っていた。違う。違う。彼はひたすら否定を続けていた。違うんだから。だから。誰かに否定してほしかった。誰かに肯定してほしかった。とにかく、彼自身が何をしたのか、第三者に意見してほしかった。大丈夫だと否定してほしかった。なんてことだと肯定し、咎められたかった。
硬い感触が胸を圧迫している。熱を孕んで、心臓を焦がす。体が妙に軽い。どうしたらいいのかがわからない。ただ走る。否定する。白いコートをこれほどまでに疎ましく感じられたことが、これまであっただろうか。彼にはそれを脱ぎ捨てることが出来なかった。
暗く湿った裏路地を逃げるように走る。もう何も見えない。聞こえない。意識は未だ惨劇を写していた。
「ああ、あああ、あ」
違う。風に飲み込まれていく呻き声は、確かにそう訴えていた。違うんだ。違うんだ。
「あああ、ちがう。ちがうちがうちがう。」
頬についた血を拭う。白いコートの袖を赤く染める。涙は知らぬ間に目尻を流れ出ていた。それには何もしなかった。頬を拭う手に力が入る。皮膚がぼろりと削ぎ落ちるまで、何度も何度も拭った。
それでも何も落ちはしなかった。血の跡も何も。ただ痛くて痛くて、それでも走るしかなくて。彼は息を垂れ流した。
「ちがう、ちがう。俺じゃない。ちがうんだ。違うんだ。俺はやってない。俺はやってない。」
見開かれた目は次第に渇き、赤く充血をし始める。腕は関節が外れそうになるほど振り回していたため、指先の感覚はなかった。足は前へ前へと意識するあまり、腰が落ちまるで糸で操られたマリオネットのようだった。唾液さえ留められなくなった唇が切れた頃、それは聞こえた。
「殺してほしいなら、次の角を左へ100メートルだ。待っているよ。」
鼓膜を直接叩かれたような、くぐもった男声だった。耳に残る、甘い誘惑にも聞こえた。彼はその声に従った。
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