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家族を殺してくれ。
彼は口早にそう告げると、赤の斑点が描かれたコートを脱いだ。重々しく地へ落ちたそれを、彼は泣きそうな顔で見つめていた。彼は同じ文句を繰り返す。二度目の文句は極めて冷ややかで、まるで別人のようだった。
グラスから滑り落ちる露を、コースターに染み込む様を、主人はただ眺めている。彼は次こそ腹が立った。しかし表には出さないよう努めているようだった。
「聞こえたか。」
「ああ、聞こえたよ。」
「いくらだ。」
「ふん、まだ請け負っていないけど。いいよ。金は要らないや。」
悩む仕草も躊躇う様子も、まして深刻な顔さえない相手に、彼の方が萎縮してしまう。彼はこのような人間とは関わらない生き道だったため、判断の基準も曖昧だ。殺すということに対する姿勢がこれほどまで低いとは、彼は知らなかった。
彼が逡巡している様子に、主人は愉快そうな笑みを浮かべた。
「君は此処で待っているといい。良い知らせを持ってこよう。」
大きく革張りの椅子をしならせ、主人は彼へ極上の笑みと言葉を残し、消えた。比喩や揶揄の意味合いではなく、主人は確かにその場から消えたのだ。瞬きをする間さえ長いと言わんばかりの、ほんに一瞬のことだった。彼は此処へ辿り着くまでの道程を思い、さして不思議ではないなと感じた。
走っていた彼に届いた声は、やけにはっきりと鼓膜を叩いていた。彼は急いており、思考が単純になっていた。
声に指示されるまま、道を左に曲がる。彼はただ急いていたのだ。だからこそ、左へ曲がるに躊躇いはなかった。先に見えたのは、木製の両開きの扉だった。彼はその前に落ち着き、右側を開けた。
そうして今に至る。彼は、あの路地を左へ曲がった先にこのような店はなかったと記憶している。此処が己にある常識から逸脱した場所だと、彼は本能から悟った。
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