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「そのコートの斑点模様、僕は好きだな。」
「は……?」
「いや、言っておこうかと思ってね。それじゃあ今度こそ、行ってくるよ。」
不意打ちに目の前に現れた主人は、彼へ身勝手な感想だけを放り投げて再び消えた。特に意味のある行動には思えず、脱ぎ捨てられたコートもまた形を変えずそこにあるがままだ。彼は不可解と共に何か大きな不安に駆られた。
そうして彼は、再び発狂した。コートはただじいっとそれを見ていた。
数分、もしくは数時間、考えれば数日かが経ったその時、主人は此処へ戻ってきた。彼がそうしたように、カウンターまでをゆっくり歩く。その手にはざらついた質感の紙の束が握られていた。彼がいた場所では、新聞と呼ばれていたのを主人は覚えている。
置かれた灯りが帰りを喜するように、ゆらゆらと光を揺らす。通り過ぎた後の灯りは、少しだけ大きくなっていた。
「ふん。ただいま。」
穏やかに息を吐(つ)き、当初から貼り付いていた笑顔もまたどこか、優しさを含んでいるようだった。主人はカウンターテーブルを持ち上げ、革張りの椅子へ落ち着く。ぎしぎしと数回しならせ、ロックグラスと氷、きつめの酒を手に取った。
自らが通った道をカウンター越しに眺める。そこにはコートが落ちているのみで、さして普段とは変わらなかった。主人は一口酒を口に含むと、次いで新聞を見た。主人には異国の字を読む術はなかった。
「報酬は、コートか。高く売れそうだね。」
グラスを持たない方の手をコートへ向ける。よくわからない不条理な力が働き、コートはぼうっと浮き上がった。主人はそれに気を良くしたか、カウンターへ空中移動させた。程良い重さは防寒だけに優れているわけではなさそうだ。
目の前に浮くそれから、いくつかの水が滴り落ちるのを、主人は愉快そうに眺めた。
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