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女はもう一歩も動くことはなかった。女の頭には、思い出ばかりが甦った。
母子家庭で、女手一つで育ててくれた母の顔。今朝もいつもの様に玄関まで出て、満面の笑みで「行ってらっしゃい。」と言ってくれた。
いつものことだった。
だから最後だなんて考えもせず…そっけない態度で出勤してしまった。
女の目から、一粒だけ涙がこぼれた。
「…分かったわ…。私を殺して…。」
どうして、母親を身代わりにできるだろう。あんなに優しい母親を…。
女は力なく一言だけ発すると、木に体をもたれさせた。
「やぁ~だ、よかったぁ!これ以上汚い言葉使いたくなかったのよぉ!じゃあ、この紙にハンコ押して!無かったら拇印でもいぃわ♪」
女はただその言葉に従い、バッグからハンコを取り出すと、簡単に「承諾書」と書かれた一枚の用紙にハンコを押した。
ハンコの押された書類を見つめる男の瞳が、一瞬、哀れみとも悲しみとも取れる色を帯びたことに、死を受け入れた女は気付かなかった。
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