小野妹子

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『日本書紀』には推古15年(607年)、推古天皇の摂政に務めていた聖徳太子の命で、第一回遣陏使として中国の陏に渡る。 そして、翌年の推古16年(608年)に裴世清(ハイセイセイ)と共に帰国した。   陏に小野妹子を送る時に、聖徳太子は有名な文言を持たしました。その文章はこうです。   『日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。』   これは始めの一部です。これを簡単に訳すとこうなります。   『日が昇る国の偉い人から日の沈む国の偉い人への手紙です。』   これは偉い人と言っていますが、相手の国を『日が沈む』という表現を使っているため、馬鹿にしているようにとらえれられます。   これには陏の皇帝である煬帝(ヨウダイ)も激怒しました。 そして、返事を書き、妹子に託しましたが、妹子は帰路の百済(クダラ/ペクチュ)で無くしてしまい、大問題になって一時は流刑に処されてしまいます。 ですが、恩赦されて大徳へと昇進するのです。 そして、翌年には陏への返事と裴世清の帰国のため、高向玄理(タカムコノクロマロ)、南淵請安(ミナミブチノセイアン)、僧旻(ソウミン)、他8名で再ぶ陏へ派遣されます。その時は20年以上も滞在したと言われています。   しかし、何故か妹子がなくしたはずの煬帝の返事が調べていると見つかりました。 これは『陏書倭国伝』にも載っています。   『蛮夷の書、無礼なる者有り、復たもって聞する勿れ。』   簡単に訳します。   『無礼者が書いた野蛮人の手紙は聞くに堪えなかった』   多少意味がかわると思います。何しろ古文は苦手で… 『野蛮人』や『無礼』が使われていることから煬帝が怒っていることがわかります。
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