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再審理の開始は1967年2月と決まったが66年12月ルビーは病に倒れ、大統領、オズワルドと同じくパークランド病院に入院した。1967年1月3日、ジャック・ルビーは肺塞栓(pulmonary embolism)のため死亡。
報道陣で埋まった市警本部の地下通路でジャック・ルビーがオズワルドを銃撃。その瞬間はテレビで全米に生中継された。(ウォーレン委員会の資料写真)
経過をたどっただけでもこの事件の類を見ない異常さが分かる。1、2補足すれば、上述のスティーブンソン国連大使を襲ったデモ隊は極右として知られたエドウィン・ウォーカー将軍の支持者。ダラス市在住のウォーカー将軍を、オズワルドは大統領暗殺事件のほぼ7カ月前の1963年4月に狙撃(未遂)したと現在では認められている。また、オズワルドとティピット巡査、オズワルドとルビーとの関係についても諸説があり論議が絶えない。事件以前から関係があったことが明らかになれば、オズワルド単独犯行説は崩れ陰謀の存在説が説得力を持つことになるからだ。しかし、こういった論点も事件をめぐる数ある謎のほんの数例にすぎない。
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