たえて言葉のなかりせば

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「なにを言ってるの……こんなときに、そのへんをフラフラしていたくせに! 図々しいにもほどがあるわ。智幸になにをする気なの?」  まるで、悪魔を相手にしているようなののしりようだった。私はうなだれた。  なにも、こんなときにまで、悪しざまに言わなくてもいいのに。そこまで私が嫌いなんだろうか。 「友紀恵……。落ちつきなさい」  おとうさんがおかあさんをなだめる。あまり効果はないようだったけれど、私は少しだけ、感謝した。  私は心をこめて頭をさげた。ふかぶかと。  男のひとはうなずいて、おとうさんとふたりで、おかあさんを連れだした。  白いドアが、ぱたん、としまる。  とたんに部屋はしずかになった。機械の動く音だけがひくくひびいている。  私はコード類を踏まないようにして、おにいちゃんのベッドのそばへ行った。おにいちゃんの顔をのぞきこむ。  とてもきれいな顔だった。まるで、ねむっているみたいな。  おにいちゃんは決してさめないねむりの中にいる。  こんなことになるのなら、もっとやさしくしてあげればよかった。  逃げたりせずに、応えてあげればよかった。  今はもう、言っても詮ないことだけれど――  ごめんね。おにいちゃん。  きっと私は、おにいちゃんが好きだった。たぶん、とても好きだった。  いつも私は、よのなかに言葉がなかったら、と思っていたけれど、今は心から、言葉がほしいと思う。  もしも私に声があったら、おにいちゃんに伝えられるから。  おにいちゃんが目をあけなくても、私の言葉はとどくでしょう?  どうして私は気づかなかったんだろう。気づこうとしなかったんだろう。  ごめんね。  ごめんね、おにいちゃん。  私はそっと、瞼をおろした。  そして、おにいちゃんのひたいに口づけた。  智幸――と。  心の中で、おにいちゃんの名前を呼びながら。
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