たえて言葉のなかりせば

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 私は顔をあげた。おにいちゃんと目があった。  おにいちゃんはやさしい、でもつらそうな顔をしていた。たいせつなものがすぐ目の前にあるのに、透明なガラスがさえぎっているせいで手の届かないときのような、そんな顔。  ど う し た の ?  私はそでで顔をぬぐってから、ボードに書いた。 「――なんでもないよ」  そう答えるおにいちゃんの顔は、たしかになんでもなさそうだった。あの不思議な表情は、すっかりなりをひそめていた。 「それよりひなこ、大丈夫?」  私はおにいちゃんの胸を一度、たたいた。  夜中にふと、目がさめた。時計を見ると二時だった。草木もねむる、丑三つ刻。  とてもしずかな夜だった。だからなんとなく、闇がこわかった。  ひたひたと迫ってきた闇が、誰にも気づかれないうちに私をのみこんでしまうんじゃないか――そんな気がしてならなかった。  私はベッドからおりて、窓のそばまであるいた。このあおいカーテンの向こうには、ベランダがある。  カーテンをひいて、窓をあけた。つめたい空気がながれこんできた。  夜空はすくなくとも、闇、ではなかった。  月。星。街のあかり。  そのおかげで、空はあかるかった。闇はひかえめにくすんでいた。  裸足のまま、ベランダにでた。足のうらがひんやりした。  風がふいてきて、私の髪をやさしくなでた。髪が顔にかかってくすぐったい。首を振ってはらった。  となりのベランダ――おにいちゃんの部屋のベランダに、おにいちゃんがいるのが目にはいった。  おにいちゃんは私に気づいていないようだった。月を見上げて泣いていた。  白いほおに透明ななみだがひとすじ、伝っていた。  まるで彫像みたいに、おにいちゃんは動かなかった。ただじっと、月を見ていた。  ――見ているのは、いけない。  そんな気がして、私は部屋に戻ろうとした。  窓に手をかける。まちがえて、こすってしまう。小さな音が、いやに大きくひびいた。  私は口許に手をやった。  おにいちゃんに、気づかれてしまった。おにいちゃんは私を見ていた。  なみだをぬぐおうともせずに。 「ひなこ……」  呆然と、おにいちゃんがつぶやいた。  ときが停まってしまったかのように、私達は見つめあっていた。  どれだけそうしていただろう。先におにいちゃんが正気にかえった。 「どうしたの、ひなこ」
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