たえて言葉のなかりせば

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 私はおにいちゃんに、待っていて、と手でしめし、部屋の中に戻った。  ホワイトボードとマーカーを持って、すぐにベランダへでる。  おにいちゃんは、待っていてくれた。  ねむれなかったの  おにいちゃんこそどうしたの  ボードを胸の前にかかげた。おにいちゃんは考えこむように小首をかしげる。 「ねむれなかったんだよ」  しばらくして言ったおにいちゃんに、  うそ  と書いたボードを見せる。  うそ。  おにいちゃんはうそをつくとき、いつも、同じしぐさをする。小首をかしげて考えこむのは、おにいちゃんがうそを考えているときのしぐさなのだ。  わかりやすいうそはつかないでと、私はいつも書くのだけれど、おにいちゃんが私にわからないうそをついたためしはない。  もちろん、わからないうそをついていた場合、おにいちゃんがそうと言わないかぎり、私に知れるはずがないのだけれど。  もしもうそをつくのなら、一生だましてほしいのに。  おにいちゃんはおとめ心がわかっていない。 「――そうだね。うそ、だ」  おにいちゃんはすぐに認めた。  とてもつらそうな、そうとても哀しそうな顔で。  どうしてうそなんかつくの  そんな顔をするくらいなら、はじめからうそなんてつかなければいいのに。 「言ったらひなこは軽蔑するよ」  私は首をふる。  どうして、おにいちゃんを軽蔑できるだろう。 「……そろそろ、潮時かもしれない……もう、だめだから……」  おにいちゃんは肩をふるわせた。片手でめがねを乱暴にはずして、目許を手でおおう。  私は目をそらした。見てはいけない気がした。 「――好きなんだ。ひなこのことが」  聞こえるか聞こえないかの大きさの声で、おにいちゃんが言った。  私は顔をあげる。  そんなの、前からわかっていた。私もおにいちゃんのことが好きだ。  今さら、どうしてそんなことを言うんだろう。 「違うんだよ」  私の思っていることを察したらしく、おにいちゃんが顔をゆがめた。  とても奇妙な言いかただけれど、おにいちゃんのゆがんだ顔はきれいだった。  切羽つまったとき、ほんとうにどうしようもないときなどにひとが見せる表情は、すべからくうつくしいと思う。今のおにいちゃんの顔がまさしくそれだった。 「ひなこの好きとは違うんだ。ひなことは、他人にうまれたかった」
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