たえて言葉のなかりせば

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 好きなひとが、自分を捨ててとおくへ行ってしまう。いったいなにが不満なのか。やはり女のほうがいいと言うのか――  そんな、うただった。英語だったから、くわしいところはわからない。でもきっとこれでいいんだと思う。  そのひとはたったひとり、ダンボールに座って、ギターをひきながら歌っていた。  私はそのひとの前にしゃがみこんで、じっと、うたに耳をかたむけた。  瞼をおろすと、うらがわが熱くなってきた。  うたのとおりの物語が、瞼のうらがわに見えた。  そばかすだらけの赤毛の少年が、金髪の青年に恋をする。ふたりの心は通じあって、しばらくはしあわせに暮らすのだけれど、青年は急にいなくなってしまうのだ。残された手紙には、たったひとこと、farewellの文字。なんの説明もないのに、少年は青年が、ほかの女のひとのもとへ行ってしまったのを知る――  どうしてひとは、一度好きになったひとをずっと好きでいられないんだろう。  どうしてひとは、好きになってはいけないひとを好きになってしまうんだろう。  けっきょく一日中ウィンドウショッピングを楽しんで、家に帰ったのは夕方だった。  家にはあかりがついていなかった。ドアにもかぎがかかっていた。  仕方なく、サイフからかぎをだして、自分であけて中にはいる。  この時間、誰もいないなんてめずらしい。  そう思いながら、リビングの電気をつけた。  食事の用意もしていなかった。ただ、テーブルの上に、無愛想にメモが残してあった。  おかあさんの字で、大学病院に来なさい、と書いてあった。  いやな予感がした。  病院。  私はその場にかばんを放りだして、家をとびだした。  今ならまだ、バスがある。走ればバス停まで十分とかからない。  手にはサイフだけを、しっかりとにぎりしめていた。  受付のひとは親切で、声がでないことを手ぶりで伝えると、紙とペンをだしてくれた。名前を書くと、病室への行きかたを教えてくれた。  私はそのとおりに、できるだけ音をたてないように走った。  なにがあったんだろう。  おとうさん、だろうか。それともおにいちゃん?  いやな考えばかりがふくらんでゆく。  息せききってドアを開けると、おにいちゃんがねむっているのが見えた。  管や線で機械につながれている、おにいちゃん。
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