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やすらかにねむっているようなのに、どういうわけか、もう帰ってきてくれないような気がした。
「――きみは?」
白髪頭の白衣を着た男のひとが、私を見て片眉をはねあげた。
なにも持っていなかったから答えられないでいると、おとうさんが、
「娘です」
と言った。
「どこへ行っていたの!? おまえがいない間に、智幸はっ……!」
母がヒステリックにわめく。母は髪もぼさぼさで化粧もしていなかった。
父は母をとめようともしない。悲痛なおももちでうなだれている。
私は白衣の男のひとに視線でたすけをもとめた。たぶん、この場でいちばん冷静だろうし、事情もわかっているだろうと思ったからだ。
「智幸さんは、登校途中に事故にあわれました。けがはそうでもなかったのですが、打ちところが悪く……」
男のひとは言葉をにごした。きっと、悪いことなのだろう。
私は先をうながした。おにいちゃんがどうなっているのか知りたかった。
「植物状態です」
――つまり、あれなのだろうか。よくドラマであるような、生きてはいるけれどもう起きあがることのない状態。
私は三人のおとなたちをうかがった。全員が全員、私の推測は正しいのだと証明するような、そんな顔をしている。
私はその場に座りこんだ。
おにいちゃんは、もう笑わない。
おにいちゃんは、もう泣かない。
おにいちゃんは、もうしゃべらない。
生きてはいるけれど、死んでいるのと同じなのだ。私の知らない間に、おにいちゃんはとおくへ行ってしまった。
私はさけびたかった。わめきたかった。
それでどうにかなるわけはないのだと、知っているのに。
彼のことなんかどうでもよくなっていた。今、私の中でいちばん大きな位置をしめているのはおにいちゃんだった。
「声をかけてあげてください。聞こえていますから」
男のひとがなぐさめるように言った。
少しもなぐさめにはならなかった。
だって、私には声がないのだ。呼びかけてあげられるわけがないのだ。
もしも、私に声があったなら。
何千回でも、何万回でも、その名を呼んであげるのに。
私は床に手をついて、よろよろと立ちあがった。
手ぶりで、私とおにいちゃんをふたりだけにして、と訴える。
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