第3章 いつもと違う年末

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しばらくしてマスター達にお礼を言ってレイチェル邸を後にした。 自宅の門を出るとすぐに瀬谷さんが横を見て立ち止まった。 そこには街の夜景が広がる。 「ここは本当にいい街だ」 瀬谷さんが夜景を見ながら普通の表情で言った。 でも、その言葉には何かがこもっているのを感じた。 「私も大好きです」 同じく左側を向いて言った。 「ありがとう。桐渕さん」 瀬谷さんは夜景を見ながらそう言った。 「え?」 私は彼の方を見た。 「今日は楽しかった。君のおかげで滅多にない時間を過ごせた」 今度は私をちらっと見て言った。 少し笑顔だ。 彼の言葉が胸に来る。 「それは私もです。ついこの間のクリスマスイブに30になって落ち込んでいましたが、先生に出会って前向きになったんですよ」 「意味がわからないが……」 「ええ、先生は落ち込みそうにないですもんね。落ち込むのが馬鹿らしくなりました」 「それは、誉められているのか、けなされているのかわからないな……」 「誉めてます」 きっぱりと言う私。 「そ、そうか。で、おめでとう……って言っていいのかな」 彼はまた普通の表情で戸惑いながら言った。 「ええ、いいんです。今は30になって良かったと思っていますから」 「そうか」 私の元気のある言い方に彼はまた笑顔になった。 「桐渕さんみたいな人に出会えて良かったよ」 普通ならドキッとする言葉だが、彼のことなのでただそれだけの意味だろう。 「先生、一つお願いがあるんですけど」 私はまた夜景に視線を戻し言った。 「なんだい?」 「私のこと『桐渕』じゃなく、『たか子』で呼んでもらえます?」 「え?」 彼はまたきょとんとしている。 「名字で呼ばれると、なんか距離感感じますから」 「そうか。じゃあ、たか子……君でいいかな?」 名前の下をどう言うか一瞬悩んだようだが、『君』は学生相手に言い慣れているのだろう。 「いいですよ。でも、私は『先生』って呼ばせてもらいますね。それに慣れちゃいました」 「おいおい、何かずるい感じがしないか?」 「え?何でですか?」 私に聞かれて、彼はふと考え込んで言った。 「そうだな。なんでだろ?」 瀬谷さんが真面目な顔で言うのでおかしくなった。 私はまた夜景を見ながら両手に、はあーと息をかけた。  
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