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しばらくしてマスター達にお礼を言ってレイチェル邸を後にした。
自宅の門を出るとすぐに瀬谷さんが横を見て立ち止まった。
そこには街の夜景が広がる。
「ここは本当にいい街だ」
瀬谷さんが夜景を見ながら普通の表情で言った。
でも、その言葉には何かがこもっているのを感じた。
「私も大好きです」
同じく左側を向いて言った。
「ありがとう。桐渕さん」
瀬谷さんは夜景を見ながらそう言った。
「え?」
私は彼の方を見た。
「今日は楽しかった。君のおかげで滅多にない時間を過ごせた」
今度は私をちらっと見て言った。
少し笑顔だ。
彼の言葉が胸に来る。
「それは私もです。ついこの間のクリスマスイブに30になって落ち込んでいましたが、先生に出会って前向きになったんですよ」
「意味がわからないが……」
「ええ、先生は落ち込みそうにないですもんね。落ち込むのが馬鹿らしくなりました」
「それは、誉められているのか、けなされているのかわからないな……」
「誉めてます」
きっぱりと言う私。
「そ、そうか。で、おめでとう……って言っていいのかな」
彼はまた普通の表情で戸惑いながら言った。
「ええ、いいんです。今は30になって良かったと思っていますから」
「そうか」
私の元気のある言い方に彼はまた笑顔になった。
「桐渕さんみたいな人に出会えて良かったよ」
普通ならドキッとする言葉だが、彼のことなのでただそれだけの意味だろう。
「先生、一つお願いがあるんですけど」
私はまた夜景に視線を戻し言った。
「なんだい?」
「私のこと『桐渕』じゃなく、『たか子』で呼んでもらえます?」
「え?」
彼はまたきょとんとしている。
「名字で呼ばれると、なんか距離感感じますから」
「そうか。じゃあ、たか子……君でいいかな?」
名前の下をどう言うか一瞬悩んだようだが、『君』は学生相手に言い慣れているのだろう。
「いいですよ。でも、私は『先生』って呼ばせてもらいますね。それに慣れちゃいました」
「おいおい、何かずるい感じがしないか?」
「え?何でですか?」
私に聞かれて、彼はふと考え込んで言った。
「そうだな。なんでだろ?」
瀬谷さんが真面目な顔で言うのでおかしくなった。
私はまた夜景を見ながら両手に、はあーと息をかけた。
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