-Plelude-

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――そっと触れるように、鍵盤に指を下ろした。 キーンという高音が部屋に響き、消えていく。 そして、旋律は始まる。流れるように指が踊り、短調の静かな曲が音となって実体となる。 丁度、曲の半分を過ぎた辺りだろうか。部屋のドアが開いた。入ってきた人影の方へ向かず、声だけで応対する。 「お帰り、姉さん」 「ただいま~……飽きもせず、よく毎日弾けるねぇフィーロは」 「……好きだからね」 「まぁ、私も好きだから良いんだけどね」 姉はそう言って……おそらく自分の背に笑みを向けているのだろう。そういう人だった。他者の楽しみを、自分の楽しみに出来る。 しかし、先程の言葉には多少の嘘が含まれている。 ……いつからだっけ。自分が好きだから弾くんじゃなくて、誰かが好きだからピアノを弾くようになったのは。 幼い頃から始めたピアノ。確かに自分の為に始めたのに、傍で自分の演奏を喜ぶ彼女の姿を見るようになってから。この楽器が自分と共にある時間は、その人の為に在るようになった。 それからは無言だった。ただ、ピアノが奏でる音だけが空間を満たしていく。 その中に自分と彼女だけが存在する。この時間が彼にとって最も心安らぐ時間であった。 そして、曲が終盤を迎える頃。彼女は唐突にこう言った。 「――姉さんね、結婚するの」 指先が最後に白鍵を叩いた。音が余韻となって空気を震わせる。彼は極めて無感動に聞こえるよう、声を紡ぎだした。 「相手は? やっぱり、ベテル?」 あの何処を見つめているのか、何処を目指しているのか分からない表情をした男が、心に浮かぶ。それゆえ何故か彼を自分は好きになれなかった。 ……いや。彼を嫌う理由はそれだけではないのだろう。 「正解。儀式が無事終わったら……式を挙げるつもり」 「そっか」 それを最後に沈黙が訪れる。 おめでとうとか、気の利いた言葉が出せない。 ……血の繋がらない姉への複雑な感情が、彼の心にわだかまっていた。 そして、彼女はもう一度繰り返した。 「姉さん、結婚するの……」 陽が、傾き始めていた。 後ろを振り向く。 姉は笑っているような。憂いているような。そんな表情を浮かべていた。 ――それが。最後に見た彼女の姿となった。
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